佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『総理の夫 FIRST GENTLEMAN』(原田マハ・著/実業之日本社文庫)

『総理の夫 FIRST GENTLEMAN』(原田マハ・著/実業之日本社文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

20××年、相馬凛子(そうま・りんこ)は42歳の若さで第111代総理大臣に選出された。鳥類学者の夫・日和(ひより)は、「ファースト・ジェントルマン」として妻を支えることを決意。妻の奮闘の日々を、後世に遺すべく日記に綴る。税制、原発社会福祉。混迷の状況下、相馬内閣は高く支持されるが、陰謀を企てる者が現れ……。凛子の理想は実現するのか!? 痛快&感動の政界エンターテインメント!

 

「凛子のようにしなやかでピュアな女性政治家が、世界を変えることができるのかもしれません」(安倍昭恵氏、解説より) 

 

 

 

 エンタテインメント小説として、そのまま楽しめた。正直なところ、原田マハ氏の政治に関する見方には異論反論が山ほどある。一見良さそうな政策も短絡的でいただけない。たとえば消費税増税は良しとして、複数税率はいかがなものか。脱原発政策にも疑問が残る。何よりも違和感があるのは、主人公・相馬凛子の政策の基本線が「徹底して社会的弱者や一般市民の目線に立ったもの」というところ。「社会的弱者や一般市民あるいは小企業」を弱い側(守るべき存在)として、財界や大企業を強い側(より社会的負担を強化して当然の存在)としてとらえている。短絡的に過ぎます。世の中をそのように弱者と強者といったステロタイプでとらえ、それを前提に考えた政策など決して役に立たないだろう。原田さん浅過ぎはしませんか。

 と、偉そうに文句を云いましたが、物語は一気読み必至の面白さ。満足でした。

 

『夜は短し歩けよ乙女 銀幕篇 劇場来場者特典・その2「乙女」から「先輩」への手紙』(森見登美彦・書き下ろし)

夜は短し歩けよ乙女 銀幕篇 劇場来場者特典・その2「乙女」から「先輩」への手紙』(森見登美彦・書き下ろし)を読みました。

 なんとステキな返事ではないか。私は彼女に天真爛漫という称号を贈りたい。いやそれでも足りない。純真無垢、無邪気、純情可憐という称号も付け加えさせていただきたい。磨きたての林檎のように元気な乙女、できたての蒸しパンのようにホカホカの乙女、古本市の神様だけでなく映画の神様にも愛される乙女を私も愛しております。先輩との映画デートがおたがいを知るための心の旅路になることを衷心よりお祈り申し上げます。なむなむ。

  嗚呼、今夜はなんとステキな夜なのだろう。

 

『夜は短し歩けよ乙女 銀幕篇 劇場来場者特典・その1「先輩」から「乙女」への手紙』(森見登美彦・書き下ろし)

夜は短し歩けよ乙女 銀幕篇 劇場来場者特典・その1「先輩」から「乙女」への手紙』(森見登美彦・書き下ろし)を読みました。映画を観たわけではありません。amazonで未読の森見登美彦氏関連書籍を検索していて発見したものです。「先輩」から「乙女」への手紙と「乙女」から「先輩」への手紙の二冊。どちらも僅か7頁しかない本です。小説としては短いが手紙としては決して短くはない。むしろ長いぐらいでしょう。「手紙のご用はなあに」と読んでみれば、「先輩」が「黒髪の乙女」を映画に誘いたいというだけのもの。それを回りくどく7頁もの分量で伝えるという迂遠な手段に無意味、徒労という言葉を添えておきたい。この手紙が「先輩」にとって骨折り損にならないことを祈るのみである。

 それにしても、私はこれら二冊を手に入れるために大枚4,980円という金子を支払った。14頁で割ると1頁あたり355円である。にもかかわらず満足している自分にあきれ果てている。あきれ果ててはいても後悔はしていない。楽しきことは良きことかな。救いようのない阿呆ですな、私は。

 さて、「黒髪の乙女から」の返事を読もう。

 

 

『春山入り』(青山文平・著/新潮文庫)

『春山入り』(青山文平・著/新潮文庫)を読みました。

 単行本では『約定』と題された短編集を文庫本では『春山入り』に改題された由、両方の短編を読んでみてなんとなくその理由が分かるような気がします。どちらも示唆に富み印象深い短編だが、もう一度読み直したいのは『春山入り』である。色あせない味わいがある。

 出版社の紹介文を引きます。

藩命により友を斬るための刀を探す武士の胸中を描く「春山入り」。小さな道場を開く浪人が、ふとしたことで介抱した行き倒れの痩せ侍。その侍が申し出た刀の交換と、劇的な結末を描く「三筋界隈」。城内の苛めで病んだ若侍が初めて人を斬る「夏の日」。他に、「半席」「約定」「乳房」等、踏み止まるしかないその場処で、もがき続ける者たちの姿を刻みこんだ本格時代小説の名品。『約定』改題。 

 

 

春山入り (新潮文庫)

春山入り (新潮文庫)

 

 

 これはあくまで私にかぎったことだろうけれど、青山氏の短編には初めのうち妙な読みにくさがあると感じる。私はその理由をあとがきに書いてあった青山氏の短編の書き方に見た気がする。青山氏曰く「私は、いわゆるプロットをつくらない書き手です。つまり、前もって設計図をつくることをしません」。物語の筋は登場人物しだいということなのだ。指が登場人物を描いてみて初めて登場人物がどう動くかが見えてくるということなのだろう。物語の前半の不透明さが私を落ち着かない気分にさせ、後半になって登場人物の行動がひとつの方向を目指して動き始めたとき、一気に興が乗り、人物が輝き始める。そんな感じですね。それはそれでミステリ時代小説として楽しい。

 

『有頂天家族 二代目の帰朝』(森見登美彦・著/幻冬舎文庫)

有頂天家族 二代目の帰朝』(森見登美彦・著/幻冬舎文庫)を読みました。

 シリーズ第一作『有頂天家族』が上梓されてからかれこれ7年半。待ちに待った第二作をやっと読める幸せ。これ以上のものはありません。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

 

狸の名門・下鴨家の矢三郎は、親譲りの無鉄砲で子狸の頃から顰蹙ばかり買っている。皆が恐れる天狗や人間にもちょっかいばかり。そんなある日、老いぼれ天狗・赤玉先生の跡継ぎ〝二代目〟が英国より帰朝し、狸界は大困惑。人間の悪食集団「金曜俱楽部」は、恒例の狸鍋の具を探しているし、平和な日々はどこへやら……。矢三郎の「阿呆の血」が騒ぐ!

 

有頂天家族 二代目の帰朝 (幻冬舎文庫)
 

 

 阿呆嵩じて崇高となる。

 描かれているのは阿呆の熱き魂、そして真摯かつ深甚なる愛。本シリーズはふざけているように見えて、実のところ秘したる切なき思いを綴った恋物語である。前作で矢三郎は弁天に問うた言葉を私は忘れ得ない。

矢三郎:「狸であったらだめですか」

弁天:「だって私は人間だもの」

 切ないではないか。この切なさを森見登美彦氏は前作で次のように看破している。すなわち、

世に蔓延する「悩みごと」は、大きく二つに分けることができる。一つはどうでもよいこと、もう一つはどうにもならぬことである。

 矢三郎は狸なのだ。それはどうにもならぬことである。しかるに弁天は矢三郎にこんなことを言ったりするのだ。

「食べちゃいたいほど好きなのだもの」

 

 これにはまいるしかない。これはもう矢三郎にとって無間地獄である。しかし無間地獄にありながら、それを地獄としない生き方の極意が矢三郎にはあるとみえる。それは「面白きことは良きことなり!」のひと言につきる。その心は前作に書かれた次の一節に端的に表される。

狸は如何に生くべきか、と問われれば、つねに私は答える__面白く生きるほかに、何もすべきことはない。

 下鴨矢三郎は人生の達人である。自分を取るに足りないもののように扱う弁天に怒りはしない。恨み辛みを申し立てたりしない。まして己の境遇に絶望したりしない。己の運命をあるがままに受け入れ、泣き言はひと言も漏らさず、あろうことか弁天に対する思いやりすら見せるのだ。

 さて、本作です。

 今作で弁天が帰ってきた場面は印象的である。

 私(矢三郎のこと)は深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、弁天様」

 しかし弁天は物足りなさそうであった。ジロリと冷ややかな目で私を見た。

「あなた、もっと他に言うことがあるでしょう? 本当に駄目な狸ね」

「なんです?」

「・・・・・・淋しかったと仰い、矢三郎」

「淋しゅうございました。お帰りなさい、弁天様」

 弁天は満足そうに頷いた。

「ただいま帰りましたよ。面白くなるわね、矢三郎。

 

 

 あれやこれやあって弁天とのラストシーン。

 弁天は私を見つめながら呟くように言った。

「・・・・・・私って可哀相でしょう」

「可哀相だと思っていますよ」

 私がそう言うと、弁天はぽろぽろと涙をこぼして、枕に顔を押しつけるようにした。くぐもった小さな嗚咽が聞こえてきた。彼女は子どものように泣いていた。

「もっと可哀相だと思って」

「もっと可哀相だと思っていますよ」

 ふたたび雨脚が強まって、大きな雨粒が窓を叩いている。客室の中はひっそりとして、聞こえるのは廿世紀ホテルを包む雨の音と弁天の嗚咽ばかりであった。

 いみじくも二代目の言った通り、狸というのは健気なものだ。

 そうやって彼女の髪を撫でながらも、とうに私は承知していた。

 弁天に必要なのは私ではない。

 狸であったらだめなのだと。

 なんとハードボイルドなラストシーン。切ないではないか。下鴨矢三郎は狸でござる。どうしようもなくそうなのだ。矢三郎に救いがあるとすれば、それは海星という許嫁だ。矢三郎と海星は赤い糸でぐるぐる巻きに結ばれている。海星が矢三郎の前から姿を隠し、許嫁の関係から身を引いた理由たるやなんとも可愛いではないか。しかしそれをここで語るわけにはいかない。成就した恋ほど語るに価しないものはない。これはかの名作『四畳半神話体系』に書かれた登美彦氏の名言である。登美彦氏はこの物語を三部作構成とすると決めていらっしゃる由。次作完結編が待ち遠しい。

 近く矢一郎と玉瀾の結婚を祝いに下鴨神社を訪れねばなるまい。そして下鴨一族の安寧と幾久しいバカ騒ぎをお祈りしたいのだ。おそらくお詣りした後は糺の森に分け入り、矢三郎と海星の仲睦まじい姿を探し求めることになるだろう。幸せなひとときになるに違いない。