今日の昼ごはんは久しぶりに神戸中山手通りの「玄斎」にて。
私のお気に入りのお店で、移転前も含めて今日が6回目の訪問です。
酒は「播州一献」「豊の秋」「都美人」「秋鹿」などをいただきました。
やはりこの店は間違いありません。
たっぷり2時間かけて料理と酒を楽しみました。
『オムライス日和』(伊吹有喜・著/ハルキ文庫)を読みました。
まずは出版社の紹介文を引きます。
有名電機メーカーに勤める菊池沙里は、大学時代にゼミで同期だった宇藤輝良と再会する。卒業して五年、宇藤は「ねこみち横丁振興会」の管理人をしながら、脚本家になる夢を追い続けているという。数日後、友人の結婚式の二次会後に、宇藤がよくいるというねこみち横丁のBAR追分に顔を出した沙里だったが…(「オムライス日和」より)。昼はバールで夜はバー―二つの顔を持つBAR追分で繰り広げられる人間ドラマが温かく胸に沁みる人気シリーズ、書き下ろしで贈る待望の第二弾。
BAR追分シリーズ第二弾である。シリーズものにはできるだけ手を出さないように気をつけてきた。お気に入りのシリーズものはおもしろいTVドラマと同じで見逃せない(読み逃せない)のである。ただでさえ食指が動く小説が次から次へと出版される。読むべき金字塔的小説もごくわずかしか読めていない。そんなことだから、シリーズものはある程度そのテイストを判っているのだから後回しにしたい。本棚の積読本を早く読んでしまいたいのである。しかし、シリーズもののは続き読みたくなるようにできているのだ。出版社もキャッチコピーでその魅力を言いはやし、作者も読者に次にどうなるのだろうと思わせて、後の成り行きと結末を知りたくて仕方がないように伏線を敷くのだ。そんなふうにシリーズ第一弾『BAR追分』を読んですぐに本作『オムライス日和』を読んでしまった。ご丁寧なことに第三弾『情熱のナポリタン』も手元においてあるという仕儀に相なるのである。
というわけで、前作『BAR追分』を読んだ後、早く続きを読みたいという禁断症状的渇きに悶えつつ本書を手に取った昨日、通退勤のバス車中、あるいは昼の弁当を食べながら、夕餉の晩酌に舌鼓を打ちながら一気に読んだ。弁当に入れた鰻の蒲焼きを食べながら、あるいは夕食に連れあいが作ってくれた豚の生姜焼きをアテに青酎を飲みながらむさぼり読んだのである。
まず『オムライス日和』という題名に惹かれる。子供の頃、母が作ってくれたオムライス、街中の食堂で食べたオムライス、学生の頃、彼女が一生懸命作ってくれた卵がちょっと破けたオムライス、オムライスには少なからず思い出がある。いちいち人に聞かせるわけにはいかないが、私の心の奥底にある切なくも心温まる類いの思い出である。そんなオムライスに著者伊吹氏は「日和」という言葉を付けたもうた。これはもう彼の俵万智さんが「サラダ」に「記念日」を付けたに比肩する快挙と言わねばなるまい。
猫が独居老人を救う、若き日の淡い恋、母直伝の家族の味の餃子、好意をもちながらお互いに距離をたもつ二人が飲む酒(「得月」と「風の森」)。一話ごとに話は完結するが、ある種の余韻と次の展開を予感させる。次作『情熱のナポリタン』も読まねばなるまい。
ーー心が少し弱った日はオムライス日和・・・
『まぼろしのパン屋』(松宮宏・著/徳間文庫)を読みました。
まずは出版社の紹介文を引きます。
朝から妻に小言を言われ、満員電車の席とり合戦に力を使い果たす高橋は、どこにでもいるサラリーマン。しかし会社の開発事業が頓挫して責任者が左遷され、ところてん式に出世。何が議題かもわからない会議に出席する日々が始まった。そんなある日、見知らぬ老女にパンをもらったことから人生が動き出し……。人生逆転劇がいま、始まる!
他、神戸の焼肉、姫路おでんなど食べ物をめぐる、ちょっと不思議な物語三篇。
松宮宏、この作家さんの名を忘れていた。しかし、プロフィールを読むと『秘剣こいわらい』の作者だと判る。私はその小説を2013年2月10日に読んでいる。
ひょこむ::そんな眼をして俺を見るんじゃない、ランシング - 秘剣こいわらい
そうかすっかりご無沙汰であった。5年前に『秘剣こいわらい』を読んだ時は、荒削りで未だ海のものとも山のものともつかぬがひょっとしたら化けるかもと思った記憶がある。その後、続編『くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい』が上梓されたが、私は気づかずスルーしてしまっている。これも読まねばなるまい。
さて、本書『まぼろしのパン屋』である。食べものにまつわる短編が三つ収められている。いわゆる人情噺といって良いのだろうが、何か風変わりなものを感じる。それはヘタをすればそれが違和感となって読むことを楽しめない種類のものである。食べもので言えば、口に入れた瞬間「ん、なんだこれは?」とちょっとしたクセを感じることがあるが、それである。それがその料理の良さなのだが、人によってはそのクセが気に障って箸を置いてしまう類いのものだ。そのクセは松宮氏の独特の視点に帰せられるものだが、もう一つ、文章の荒さにも起因している気がする。特に第3話『こころの帰る場所』など、播州弁で書かれていることもあって読みにくいこと甚だしい。もちろんこの小説の世界観を出すために必要な手段なのだろうが、播州弁をはじめディープな関西弁は小説に向かない。なぜだろう。
(追記)
播州弁で書かれた小説で播州弁で書かれたことが成功を収めているのは車谷長吉氏の『灘の男』ぐらいなものだろう。あれはそうする必然性がある。
同級生の福音を聴く。
皆さん、各所でご活躍の由、幸甚に存じます。
本日の厨房男子。
TさんとSさんが持ってきてくださった茄子をオリーヴオイル焼きにしました。
食べ方は2種類。
味噌田楽をつけて和風で。
もう一つはトマトソース味でチーズを溶かしてイタリア風。
茄子とオリーヴオイルの相性は抜群ですね。
〆は素麺揖保乃糸。