佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

「陰翳礼賛」(中公文庫・谷崎潤一郎著)を読む

 谷崎潤一郎の随筆「陰翳礼賛」を読んだ。ヨウスイさんから読んでみてくださいと貸していただいた本だ。さすがヨウスイさん、読書家でいらっしゃる。私は高校生の頃(約30年前)に「痴人の愛」「刺青・秘密」「少将滋幹の母」など氏の本を読み耽り、「耽美」とはこういうものかと妖しく胸をときめかせつつ、氏の描く世界を彷徨うことにほんの少しためらいを感じた経験を持つ。あぁ、当時はウブだったのだなぁ。それ以来、氏の本を手に取ることはなく、氏が随筆を書いていることも知らずにいた。氏の随筆がこれほど示唆に富み読み応えのあるものとは。
 陰翳とは光のあたらない暗い部分のことである。「陰翳礼賛」が書かれたのは昭和八年のことだが、西欧化が進んだとはいえ、当時は電気による照明も今ほどではなかったであろう。しかし、その当時にあって氏は家、料理屋、ホテルなどあらゆる場所が明るすぎ、日本の美を損なっていると云う。我が国において漆器や蒔絵、金襖や金屏風、金襴の袈裟や織物など、古来のものすべてが行燈や蝋燭の光、ほの暗い闇の中で味わうからこそ、その美しさが引き立つ。食べ物において、羊羹や味噌汁、たまり醤油も西欧風の明るさの下でなく、日本風の闇の中にあってこそ美味しさが深みを持ち味わいがあると云う。
 この随想において、氏は「古き良き日本」への回帰を説いているように見える。しかし、氏はもう後戻りできないことを承知しつつ、失われつつあるものへの愛おしみを表現したかったのではないか。決して軽薄な懐古趣味ではなく、文明がもたらす必然を知りつつも消えゆくものを思い、そこに「美」を見いだす、そうした心にこそ氏は価値を置いているのではないかと思われる。

それにしても、氏の文章は随想にあっても美しい。流れるような名文である。本文を少し引用してみる。
・・・・・元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにあゝ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくゞり、廊下を通って、ようようそこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、たゞ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。私はしばしばあの障子の前に佇んで、明るいけれども少しも眩ゆさの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繁の障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈が、あたかも塵が溜まったように、永久に紙に沁み着いて動かないのかと訝しまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだゝく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつゝあるからである。諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にたゞようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。或はまた、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。(本文より)

良い本に巡り会うことができました。ヨウスイさんありがとう

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫)

陰翳礼讃 (中公文庫 A 1-9)

陰翳礼讃 (中公文庫 A 1-9)