佐々陽太朗の日記

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『無私の日本人』(磯田道史・著/文春文庫)

『無私の日本人』(磯田道史・著/文春文庫)を読みました。

まずは出版社の紹介文を引きます。

貧しい宿場町の行く末を心底から憂う商人・穀田屋十三郎が同志と出会い、心願成就のためには自らの破産も一家離散も辞さない決意を固めた時、奇跡への道は開かれた―無名の、ふつうの江戸人に宿っていた深い哲学と、中根東里、大田垣蓮月ら三人の生きざまを通して「日本人の幸福」を発見した感動の傑作評伝。

 

無私の日本人 (文春文庫)

無私の日本人 (文春文庫)

 

 

 三つの短編から成っている。

  1. 穀田屋十三郎
  2. 中根東里
  3. 太田垣蓮月

 すべて実在の人物で、実話を元に書かれている。

 無私とは何か。大辞林によると「私心・私欲のない・こと(さま)」とある。ではさらに私心・私欲とは何か。「自分一人の利益を図ろうとする気持ち」であろう。そうした心のない日本人、あるいはそうした心を抑制することが出来る日本人の資質は周りを見渡せば希有な存在だといえる。人として美しい有り様だ。確かに我々日本人にはそうした心を尊ぶ気風がある。しかし我々は単純に自分の利益を図る行為を見苦しいものと断じて良いのだろうか。周りの状況によっては人を出し抜いても生き延びる手段を講じる必要があるだろう。さもなくば死ぬ。己だけが死ぬのなら良い。自分が守るべきもの、妻子まで死んでしまうような厳しい生存競争の状況があったとして、無私の心は弱さ(=命取り)になりかねないからだ。こう考えたとき、驚異に目を見張らされるのは第一話「穀田屋十三郎」だ。このままではとても未来が無いと追い詰められた宿場町を憂え、なんとかせねばという思いのあまり、もし企てが失敗すれば自らの命はおろか家の全資産を差し出すことも、あまつさえ一家離散をも覚悟してしまうのである。バカである。いやもうそう言っては失礼だがバカとしか言いようがない。それほど突き抜けた覚悟、強い思いがあったればこそ、住民皆の心がまとまり、事なかれ主義の小役人の心を動かし、藩の重臣にまで思いが伝わり、ついに藩を動かしたのだといえる。そうした江戸時代後期の日本人の心のありようを著者は次のように書いている。 

 江戸時代、とくにその後期は、庶民の輝いた時代である。江戸期の庶民は、

――親切、やさしさ

ということでは、この地球上のあらゆる文明が経験したことがないほどの美しさをみせた。倫理道徳において、一般人が、これほどまでに、端然としていた時代もめずらしい。

(P87)

 

 江戸という社会は、日本史上に存在したほかのいかなる社会とも違い、

――身分相応

の意識でもって保たれていた。身分というものがあり、人がその身分に応じた行動をとる約束事で成り立っていた社会である。その開祖、徳川家康は「味噌は味噌臭きがよく、武士は武士臭きがよし」という言葉を好んだ。ようするに「身分に応じた振る舞いをせよ」ということである。武士が見事に腹を切るのも、庄屋が身を捨てて村人を守るのも、この身分相応の原理に従ったものであり、この観念は、江戸時代における最も支配力の強い人間の行動原理であった。身分相応の行動をとるのが、あたりまえであり、それに従わぬものは、世間から容赦なく、卑怯者、無道者の烙印をおされ、白眼視された。

(P93)

 

 すでに江戸時代も後半にさしかかっている。「家意識」は、この小さな宿場町の人間にもすっかり浸透していた。

――家意識

とは、家の永続、子々孫々の繁栄こそ最高の価値と考える一種の宗教である。この宗教は「仏」と称して「仏」ではなく先祖をまつる先祖教であり、同時に、子孫教でもあった。子孫が絶え、先祖の墓が無縁仏となることを極端に恐れた。江戸時代を通じて、日本人は庶民まで、この国民宗教に入信していった。室町時代までは、家の墓域を持つことはおろか、墓に個人の名を刻むことさえ珍しかったが、江戸時代になると、「誰が墓を守るのか」が問題になり、「墓を守る子孫」の護持が絶対の目的となった。それゆえ、「現世のおのれか、末世の子孫か」と、迫られれば、たいていの人間は後者をとった。

(P97~98)

 

 名字をもち、武士並みの身分をもつ千坂よりも、菅原屋と十三郎のほうが、切腹の覚悟が定まっていたのは、別段、驚くにあたらない。この時代の百姓町人は、いざとなればそういうものであった。

 いってみれば、

――廉恥

というものが、この国の隅々、庶民の端にまで行き渡っており、潔さは武士の専売特許ではなかった。

・・・・・・(省略)・・・・・・・・・・・

 さらにいえば、明治になってできあがる近代国家は、この庶民の廉恥心を十二分に利用できたといってよく、この国は、江戸時代に、庶民に染みとおったこの廉恥心でもって、日清日露を戦いしのぎ、昭和の大戦を戦って、ついに崩れた。

(P169~170)

 

 要は「名こそ惜しめ」ということであろう。物や金よりも矜持を持つことをこそ大切にする考え方。中世武士の時代から江戸時代にかけて武士道が確立されていく中で「人は一代、名は末代」といいながら、後世に名を残す立派な行いをすることで、子々孫々の繁栄を願う行動様式こそ日本の心の美しさの原点であろう。そうした心は為政者、権力者に利用されてきたという見方もあろう。しかし私はそのような見方をすべきではないと思う。そのような見方は気高く美しい心を持ってした行為を貶めるものだろう。事実、江戸時代、支配階級であった武士のおおかたは身分の低い町民よりも貧しく質素な生活をしていたのであり、諸外国の支配階級のように人民からの搾取で生きていたのではない。むしろ身分相応を心がけ、貧しくとも卑しくならぬよう身を律していたと見るべきではないか。