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ウェルズの日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『いま、会いにゆきます』(市川拓司・著/小学館文庫)

読書日記

いま、会いにゆきます』(市川拓司・著/小学館文庫)を読みました。

まずは出版社の紹介文を引きます。

大好きだった妻の澪が亡くなって1年、身体にさまざまな不具合を抱えた巧は、町の小さな司法書士事務所に勤めながら、6歳になる一人息子の佑司とひっそりと暮らしていた。再び巡ってきた雨の季節の週末、いつもどおりの散歩に出かけた町はずれの森で、この父と子二人に奇跡が訪れる。哀しい未来を知りながら、それでも愛しい存在に向かって発せられる言葉。その深く強く優しい決意に、きっと心打たれるはずです。市川拓司ワールドの原点をなす最上の恋愛小説。

 

いま、会いにゆきます (小学館文庫)

いま、会いにゆきます (小学館文庫)

 

 

 市川拓司氏の小説を読んで感動したといっていいのかためらいがある。素直に市川氏の小説が好きだということにちょっと恥ずかしさがあるのだ。この”ためらい””恥ずかしさ”は何だろう。私が初めて市川氏の小説を読んだのはついこのあいだのことだ。『ねぇ、委員長』という小説だった。事実私はそれを数ページ読んで「これは無理だ」と投げ出しかけた。思い入れたっぷりの感傷的な表現が鼻についてとても読めたものではないと感じたのだ。しかし、もう少しだけと読み進めるうちに、物語に引き込まれた。そうするだけの何かを感じたのだ。最後まで読んだとき、私はすっかりこの短編集に浸っていたのだ。少し泣いてもいた。だから今日、映画化されて有名な本書『いま、会いにゆきます』を読んだのだ。

 やはり独特の臭さはある。人によってはこの作品を”小説”とは認めないというかもしれない。そんなことを言う人を私は嫌う。しかし、その言わんとするところはなんとなく分かるのだ。市川氏の文章は小説をたくさん読む人には敬遠されがちだろう。そうはいっても文章はどこか村上春樹氏に似ている。今や村上氏は日本を代表する世界的作家であり押しも押されもしない評価を得ている。何せ毎年ノーベル文学賞授賞候補者の筆頭にあげられるほどだ。(ちなみに私はノーベル文学賞はその選考傾向においてクソだと思っている。あんなものをありがたがる必要はない) その村上氏に似ているならば、市川氏の小説も評価されるべきなのではないか。そう思わないでもない。しかし、このお二方の文章は根本的に違う気がする。何処が違うのか。端的に言うと村上氏の小説は "cool" な印象を持つが、市川氏のそれは "wet" 、それも同時に "warm" な印象を持つ "wet" である。では村上氏の小説が "warm" でないかといえばさにあらず、彼の小説は "cool" であると同時に "warm" でもある。そのあたりは村上氏が小説家としての技能に優れているということなのだと私は考える。要は村上春樹を好きだというのはカッコイイが、市川拓司を好きだというのはカッコワルイと受けとられかねないのだ。単純に村上春樹の方がはるかに洗練されているといっても良い。結局のところ、両氏が似ているのはカート・ヴォネガットレイモンド・カーヴァーなどを好んでいらっしゃるところにあるのだろう。

 では市川拓司氏はもっと洗練された文章を書くべきなのか。答えは「否」だろう。市川氏の小説の良さは市川氏ならではの野暮ったさの中にあるからだ。読んでいて「こっぱずかしい」と感じながらもボロボロ泣いてしまう、そんなこっぱずかしい自分に歯止めをかけようとしながらも結局は抵抗空しく敗れてしまう心地よさにあるからだ。

 人からカッコワルイと思われたくなければ読まなければいい。そういうことだ。

 この小説は加納朋子氏の『ささらさや』の如く家族を想う愛の小説として、恩田陸氏の『ライオンハート』あるいはロバート・ネイサン氏の『ジェニーの肖像』のように時を超えた奇跡を描いたファンタジーとして並び称されるべきだ。

 酒を飲みながら少々 "hot" に語ってしまいました。こういうのはちょっとカッコワルイですなぁ・・・。みっともないことにならないうちに寝ますか。明日はカート・ヴォネガットを読むか、レイモンド・カーヴァーを読むか、はたまた別の何かを読むか。明日の朝の気分次第だ。確か『タイタンの妖女』と『ぼくが電話をかけている場所』が本棚にあったな。

 

 

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)