ウェルズの日記

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『タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア:著/浅倉久志:訳/ハヤカワ文庫)

タイタンの妖女』(カート・ヴォネガット・ジュニア:著/浅倉久志:訳/ハヤカワ文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

すべての時空にあまねく存在し、全能者となったウィンストン・N・ラムファードは戦いに明け暮れる人類の救済に乗り出す。だがそのために操られた大富豪コンスタントの運命は悲惨だった。富を失い、記憶を奪われ、太陽系を星から星へと流浪する羽目になったのだ。最後の目的地タイタンで明かされるはずの彼の使命とはいったい何なのか? 機知に富んだウィットを駆使して、心優しきニヒリストが人類の究極の運命に果敢に挑戦した傑作!

 

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)

タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

以下、ネタバレ注意!

 

 多くの人からの絶賛を受け、多くの作家から影響を受けたと言わしめる小説だけに、気合いを入れて読みました。しかし思いのほか諧謔の調子に乗せられ厳かな心もちは何処へやら、肩の力が自然と抜けていった。本の帯に謳ってあるとおり、なるほどこれが爆笑問題太田光氏が「今までに出会った中で、最高の物語」と絶賛した所以かと勝手に納得。しかししかし、読み進めるうちに「これはなかなか・・・」と考えさせられる記述があり油断ならない。例えば人類が外へ外へと無限の宇宙空間までも繰り出した結果を「宇宙空間、無限の外界の報償は、三つ__空虚な英雄趣味と、低俗な茶番と、そして無意味な死だった」(本書P10)と切って捨てたり、本書の主人公(?)マカライ・コンスタントの父が息子マカライに宛てた手紙に書いた言葉「わしがこれまでにまなんだたった一つのことはこの世には運のいい人間と運のわるい人間とがいてそのわけはハーヴァード・ビシネス・スクールの卒業生にもわからんということだ」(本書P97~P98)  などがそれだ。人類の愚かしい行為や人生についてまわる不条理をこれほど端的に表現した言葉もないだろう。けだし慧眼の持ち主というべきか。

 基本的にSFなのだから自由なのである。読者に受け入れられる限り、どういう展開もありなのだ。著者のとんでもないアイデアの奔流が綴られており、読者たる私は「なんだなんだ? これはいったいどういうことだ? オイオイ、それってどうなの?」などと頭の中が”???”だらけになりながら読み進めることになる。そしてつまるところ、物語終盤で味わうことになる「絶望」。人間は所詮大いなる力(それを神と呼ぼうがどうが、そいつの勝手だが)に弄ばれる存在であって、人間が己の振る舞いに如何に意味を見出そうとそんなものは大いなる力の前には屁みたいなものなのだという現実。つまり「人間として生まれ死んでゆくこと。DNAとして生き続けることで永遠を獲得すること。そしてどうやらそのことに何の意味も目的もないらしいこと」に気づかされたときの虚無感たるや・・・。「人生なんてそんなもんだよ」ってなオチをつけられて、それに返す言葉もなく黙り込むしかないのだろうか。いや、それに立ち向かう自由はある。たとえ第三者から見てそれが空しく見えたとしても。馬鹿なことだと分かってはいても、それを分からない振りをして馬鹿を演じてみるのも一興。どうせ人生は一度しかないのだ。賢く生きる必要はない。少なくとも他人にその生き方をとやかく言われるいわれはない。

 終盤の枢軸をなしているのはトラルファマドール星人の探検者・サロの存在だろう。彼は五十万地球年も前にトラルファマドール星から遠く離れた銀河へのメッセージを届けるために作られた機械(ロボット)で、乗っていた宇宙船は「そうなろうとする万有意志」(Universal Will to Become, UWTB) で推進していたのだ。しかし、宇宙船の小さな部品が壊れたため、二十万地球年の間、太陽系タイタンで足止めされており、故郷の星から故障した部品の代替品の到着を待っているのだ。おもしろいことにサロは二十万地球年の間の暇つぶしに彫刻やヒナギクの栽培やらの道楽に凝る。機械でありながらだ。それだけでなく、あろうことかサロはウィンストン・N・ラムファードに対し愛情を抱いているのだ。もちろんセクシャルな意味ではない。(サロは異星人、いや機械なのだから当然だ) サロはラムファードの友情を得たいがために、自分に課された使命にすら反し、自らを分解し自殺を図るのである。ここに至って読み手の私は「サロを機械と決めつけて良いのか?」という疑念を抱かざるを得なくなった。その疑念は四十年前にフィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』を読んだ時に抱いたものと同様のものだ。私が紅顔の美少年から青白き文学青年に変身を遂げようとしていた十七歳のころのことだ。人と機械を隔てるものは何なのだろう。私は未だに答えを得ていない。ある種の感情を持ち、悩み、自殺を図る存在は機械の域を超越した存在と認めざるを得ないのではないか。機械と生命体の境界、これはなかなか難問だ。この難問に挑むためにもう一度『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』を読み直そうか。いや、それよりトラルファマドール星が舞台になっているという小説『スローターハウス5』を読む方がよいか。いやいや、同名の映画を観た方が良いかも知れない。なにせカート・ヴォネガット自身が「小説より良くできている」と評したらしいのだから。いずれにしても、こんなことで悩み始めると日常のことが手に付かない。年末の慌ただしいときに困ったことだ。

 最終的にマカライ・コンスタントがたどり着いた人生の目的は「どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っている誰かを愛することだ」ということ。一隅を照らすってことにもつながるのかな。おそらくその考えは間違っていまい。まぁたとえ間違っていたとしても「人生に意味なんてない」と暗くうつろな目をしているよりはよっぽどイイだろう。私は賢しらな顔をして絶望している奴が大っ嫌いだ。

 蛇足ながら、嫌いといえば私はウィンストン・N・ラムファードがなんとなくいけ好かない奴だと思って読んでいた。訳者のあとがきによるとこの男のモデルはフランクリン・ローズヴェルトであるらしい。シガレット・ホルダーを使い、グロトン風のテノールでしゃべるといったところが共通点だが、そんなことはどうでも良い。このラムフォードという男は火星軍による地球攻撃があること、それにどんな意味があるかを知っていたただ一人の人間なのだ。そしてフランクリン・ローズヴェルトは日本軍による真珠湾攻撃があったときのアメリカ大統領である。そのことにどんな意味があるかを考えると、フランクリン・ローズヴェルトという男はつくづくいけ好かない野郎だと思う。

 以上、酒の酔いに任せてグダグダ書いてしまった。明日になればこの記事を消してしまいたくなるかも知れない。しかし、もしそう思ってもこのままにしておこう。どちらにせよこんなものに大した意味はないのだから。ただ本を読んで、あれこれ埒もないことを考える、それこそが本を読む醍醐味なのだから。

 

 

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))