『五足の靴』(五人づれ・著/岩波文庫)を読みました。
まずは出版社の紹介文を引きます。
明治40年盛夏。東京新詩社の雑誌『明星』に集う若き詩人たち―北原白秋、平野萬里、太田正雄(木下杢太郎)、吉井勇がいさんで旅に出た。与謝野寛との五人づれは長崎・平戸・島原・天草と南蛮文化を探訪し、阿蘇に登り柳川に遊ぶ。交代で匿名執筆した紀行文は新聞連載され、日本耽美派文学の出発点となった。
明治40年(1907年)夏、東京新詩社の主宰の与謝野寛(鉄幹)とその門弟、北原白秋、平野万里、吉井勇、木下杢太郎の5人が一ヶ月にわたり九州旅行を旅した。「五足の靴」と名づけた旅の記録。翌年には北原、吉井、木下が東京新詩社と袂を分かっただけに、『明星』の放った最後の輝きと云えるかも知れない。それ以後、五足の靴が揃った事はなかっただろう。二度と見る事のない青春の輝きであったに違いない。
【五足の靴の足跡】
- 7月28日
東京を夜行列車で出発
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車中泊
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- 7月29日
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車中泊
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- 7月30日
朝4時半、宮島駅に着き渡船場へ
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厳島を見学する
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赤間神宮を見学する
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下関「旅館川卯」泊
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- 7月31日
汽車で福岡へ向かう
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夜、福岡県文学会が催される
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福岡「川丈旅館」泊
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- 8月1日
汽車で奈多へ向かう
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千代の松原で海水浴
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柳川へ向かう
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柳川「北原白秋宅」泊
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- 8月2日
白州生家の酒蔵を見学する
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柳川「北原白秋宅」泊
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- 8月3日
雨中、佐賀へ向かい途中から鉄道馬車乗車
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14時佐賀へ着き、佐賀城跡を一周する
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佐賀泊
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- 8月4日
鉄道馬車で唐津へ向かう
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虹ノ松原を散策
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唐津での文芸会へおもむく
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唐津「博多屋」泊
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- 8月5日
汽車で佐世保へ向かう
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平戸行き汽船に乗り遅れ、宿泊することに
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佐世保「京屋旅館」泊
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- 8月6日
朝10時、佐世保港から平戸行き汽船乗船
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14時平戸着、下島氏を訪問
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亀岡神社、阿蘭陀塀、阿蘭陀井戸等見学
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「米屋」で夕食休憩、夜半の汽船で佐世保へ
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佐世保泊
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- 8月7日
汽車で長崎へ向かう
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長崎「上野屋旅館」泊
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- 8月8日
長崎から乗合馬車で茂木へ向かう
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茂木港を11時出船、富岡港13時着
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富岡泊
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- 8月9日
大江まで約32㎞を徒歩で出発
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海沿いの悪路を行き、下津深江で昼食
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大江「高砂屋」泊
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- 8月10日
大江天主堂にガルニエ神父を訪ねる
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14時の汽船で牛深港へ向かう
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崎津、魚貫に寄港し、16時牛深港へ
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牛深「今津屋」泊
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- 8月11日
早朝3時、大門経由際崎行き汽船乗船
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際崎港に14時着、三角港まで歩く
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三角港17時発の汽船で島原港へ
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島原泊
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- 8月12日
島原城跡で、キリシタンの歴史を偲ぶ
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12時に汽船で長洲港へ向かう
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長洲駅から汽車に乗り上熊本駅下車
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熊本「研屋旅館支店」泊
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- 8月13日
馬車で阿蘇を目指し、大津で昼食
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栃の木過ぎて下車し、徒歩で垂玉へ
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垂玉温泉「山口旅館」泊
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- 8月14日
阿蘇中岳登山し、火口を見学する
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下山途中案内人が道を間違え迷う
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栃木温泉「小山旅館」泊
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- 8月15日
馬車で熊本市内へ戻る
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水前寺畔の画津湖で、船遊び
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熊本「研屋旅館支店」泊
- 8月16日
汽車で三池へ向かい三池炭坑見学
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柳川「北原白秋宅」泊
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- 8月17日
柳川で船下りなどして遊ぶ
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柳川「北原白秋宅」泊
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- 8月18日
白州を残し、汽車で九州を出る
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徳山「徳応寺」泊
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- 8月19日
汽車で京都へ向かう
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京都「お愛さん」泊
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作中、気に入った所を引く。
この辺(あたり)から『海の中道』が初まる。玄界灘と博多湾とを界し、長さ三里のに亘る砂丘の連続である。丘に登って洋々たる玄界灘を見る。降って磯を歩く。風なければ晴れたる海は静かである。水の色は空に映り、空の色は水に映る。紺青の世界の一方を限るは、卵の如く白い砂の壁である。自然は意匠に富む、砂の壁は限りなく襞(ひだ)を作り、長く続いて厭くことを知らぬ。白い砂が白く光って人の目を眩(くらま)す。暑さは熬(い)るようである。えぐれた壁に陰を求めて衣(きぬ)を脱し、天野、河内、中田三氏と我ら五人、八人の男は海に飛び込む。海は遠浅だが同じ砂で底が成り立っている、それ故に清く澄んでいる。他に人はいない。這い上がって砂の上に転がるは芋のようである、手と足とを使って砂丘を攀(よ)するは猿のようである。 「(四)砂丘より抜萃」
雨を犯して佐賀へ向かう、枯れ果てて礎(いしずえ)のみ残る城の趾(あと)は到る処にある。到る処の城趾は多少の歴史と多少の出来事とを持っているだろう。一々聞かば面白い事もあろうが、どうも大同小異の後家騒動を聯想させて困る。後家騒動などは聞きたくない。 「(六)雨の日より抜萃)
下を通るは、かあちかち、
辻占(つじうら)を売る引板(ひだ)の音。
『よき運ひらくか、ひらかぬか、
待人きたるか、きたらぬか。』
奴(やっこ)すがたに肩ぬぎし
声よき艶女(やしよめ)、ちりめんの
襦袢の袖の緋の色に
島原の夜はなまめきぬ。
「(十四)海の上より抜萃」
風俗の淫靡なことは有名なものだ。良家の処女といえども他国から来た旅客が所望すれば欣々として枕席に侍する、両親が進んでこれを奨励する。 「(十四)海の上より抜萃」
※本当だろうか?
知らぬ街の知らぬ路に迷って、ゆくりなくも二本木という強慾の巷に出る。白川の岸を辿りて帰ろうとしたが、あまり足が疲れたのと道が分かりかねるのとで、辻車(つじぐるま)を呼んで飛乗った。夜風は思いの外に涼し。
その夜心の中(うち)で、こういう断定を下した。『熊本は大いなる村落である』と。K氏云わく、西郷は彼の精鋭の大兵を率いながら烏勢(からすぜい)の百姓兵にここで負けた。 「(十七)熊本より抜萃」
大津という所で正午(ひる)になった。なるほど聞いた通り菜(さい)は馬肉だという、汚そうだからよしにした。 「(十八)阿蘇登山より抜萃」
昔の人は心から自然力に驚嘆した。火を崇め、山を祭つた。其子孫なる今人は亦惰性的に自然を恐れてゐる。昔よりは衰へたが、併し今尚盛んな想像力で而かも現代の物質的文明から経験し得た諸々の写象を基として、外形的に巨大なものを自然から予期してゐる。そこで山に登る。登つてみれば、彼等の耳目に触れるものは、其日常見聞する所のものから、さう大して優れてはゐない。そこで彼等は失望する。彼等は経験こそ多けれ、其精神は昔の人程大きくないのだ。「崇高」は外に無くて、内に在る。昔の人は僅少な自然動にでも、全心を燃やす可き大いなる火縄を得ることが出来たのだが、それが彼等には出来ないのだ。自分は山を下リ乍らつくづく現代と自分とを咀つた。そして変な情動から駈け出したら、石に躓いて、倒れて、したたか助骨を打つた。 「(十九)噴火口より抜萃」
この瞬間世界の石炭は幾億万噸(とん)か煙(けぶり)になる。この瞬間世界の炭鉱は世界の炭鉱は幾億万噸か掘り出す、地の下に虚(うつろ)が出来る、この瞬間文明は進歩する、文明は石炭に正比例をして一端より他端へ進む。プルスの無限極裡はミススの無限極裡と相通ず、先へ進むは元へ戻る事である。 「(二十一)三池炭鉱より抜萃」
※プルスの無限極裡とミススの無限極裡とはなんぞや?