ウェルズの日記

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『哲学するレストラトゥール』(橘真・著/ブリコルール・パブリッシング)

『哲学するレストラトゥール』(橘真・著/ブリコルール・パブリッシング)を読みました。

 まずは出版社の紹介文と内田樹氏の推薦文を引きます。

 

神戸の名ソムリエが淡路島に移住して実践する、有機農業による自給自足。
オルタナティヴな営みの実践を通して導く、ラディカルな手づくりの哲学と思想のカタチ。

かつての神戸を代表する伝説的なフランス料理の名門として一時代を画した[レストラン・ジャン・ムーラン]のソムリエを経て、闊達でフレンドリーな店として人気を博したワインバー「ジャック・メイヨール」の店主であった著者の橘真さんは、その後、フランス・イタリアのワインや野菜の生産地を視察研修の後、ワインの輸入卸業務店を経て、2009年に淡路島に移住。自らの思考と哲学を実践すべく、有機野菜の栽培、平飼いの養鶏による飼料の自給、罠と銃による狩猟などを行いつつ、淡路島内外のレストランに野菜などの直接販売を手掛けており、将来的には葡萄の自家栽培による有機ワインの醸造を目指しています。
都市的生活から一転、地方の中山間地に移り住み、「有機農業による自給自足」という、等価交換的価値観が蔓延する現代日本におけるオルタナティヴを選択し、自らの農業を「自然からの贈与に対する責務と返礼」と考えるその暮らしのカタチには、これから縮小していくのが既定路線であるこの国で生きるための知恵が隠されているように思います。
農業に興味を持ち地方へと移住する若者が増えつつある今、現代の日本社会の歪み、農業や地方が抱える問題と向き合いながら、農業や私たちの食、共同体、自我と隣人、人間存在や生きていくことの本質を、レヴィ=ストロース網野善彦オルテガなどの古今東西の知の巨人の思想にも言及しつつ、掘り下げて述懐します。
無償の贈与に対する責務の返礼を負ったレストラトゥール(レストランの職人)としての矜持を胸に、1人の農業家が自らの実践を通して導く、ラディカルな手づくりの哲学と思想がここにあります。


内田樹先生(思想家・武道家)のご推薦文より

「僕が「行きつけのバー」というようなものにお店の人とおしゃべりをするためだけに足繁く通ったのは、後にも先にも橘さんのお店だけである。それくらいに橘さんの話は面白かった。」
「橘さんはいったいどんな文章を書いてきたのだろうとわくわくして頁をめくった。そして、何頁か読んで、うれしくなってきた。バーのカウンター越しにおしゃべりしていたときの口調と同じなのである」
「その文体は、その語り口と同じように、自由である。そのときに頭に浮かんだアイディアの尻尾をどこまでも追いかける。
捕虫網を持った少年が真っ黒な足を激しく動かしながら、田んぼを突っ切り、小川を飛び越え、森の中を走り回っているのと同じである。
ここに記されているのは、その「足跡」である」

 

哲学するレストラトゥール: 自給自足の有機農業で実践する「贈与への責務と返礼」

哲学するレストラトゥール: 自給自足の有機農業で実践する「贈与への責務と返礼」

 

 

 本書は積水ハウスのWEBサイト「住ムフムラボ」に掲載されたコラム「ぼくが農家になった訳」を加筆修正して書籍化したものらしい。元バーのマスターとしての蘊蓄の発露がWEBサイトでのコラムであり、その集大成が本書だということであろう。

http://www.sumufumulab.jp/sumufumulab/column/

 

 以下に各章ごとの私なりの理解を書いてみたい。しかしながら、私には実のところよく理解できないところが多いのである。従ってもし見当違いな理解があったとすれば、著者・橘真氏にお詫びするしかない。申し訳ございません。予めお詫び申し上げます。

 

【第1章】「レストラトゥール」って何だ?

 まず最初に本のタイトルに入っている「レストラトゥール」とは何ぞや。聞き慣れない言葉であるが、どうやらそれは「レストランの職人」という意味らしい。そして重要なのは著者・橘真氏は現在、農業や養蜂、養鶏、狩猟を生業としているが、農家になった今でも自分は「レストラトゥール」なのだと考えており、同じ「農産物の生産」に携わっていてもその内容あるいは形態が一般的なものとは違っているのだと考えている点であろう。唯々農産物を生産しているのではなく、そこに哲学がある。『哲学するレストラトゥール』という書名に込められているのはおそらくそのような思いであろう。

 そして著者がレストラトゥールとして基軸とする概念は「レストランは等価交換ではない」というもののようだ。ここでこの「等価交換でない」ということの意味について、その不等号はどちらを向いているのかという単純な疑問が生じるのだが、橘氏が自らをレストラトゥールであると言っているので素直に「レストランで客が支払う金額 > レストランが提供する価値」ではなく「レストランで客が支払う金額 < レストランが提供する価値」と読んで差し支えないだろう。ただ、どうして「レストランで客が支払う金額 = レストランが提供する価値」であってはならないのだろうという疑問は残る。選りすぐられた食材にレストラトゥールの調理技術が加えられ、さらにレストランのサービスをオンした価値に対し客が納得して金を支払ったとしたら、これは等価交換と言って良いのではないか。ひょっとして橘氏はそこにレストラン側のホスピタリティーという無私の行為を加えることによって等価バランスを崩し「=」を「<」に変えたのではないかとも考えた。

 この「等価交換」に関しては後で「贈与」というキーワードとともに語られるところがあり、それが著者の真意を推し量る手助けになると思われる。

 P138(【第10章】現代の狩猟をめぐる試論(2)「料理人」は「世界」を秩序づける)の記述を引く。

 拡大すれば、この「料理」というものがもつ「儀式」を含んだ「転換」は、「手工業であり、芸能であり、知識であり、宗教」であって、市場的な「等価交換」では価値を計れない「贈与」がその本質であり、「人間の裁量を超えたもの(天皇・神仏)に奉仕する道々の輩」ということができる。

 ちなみにこれは網野善彦・著『増補 無縁・公界・楽』を引用した記述である。この「贈与」が料理あるいはその提供の本質であるという論からすればどうやら次のような推論が成り立ちそうだ。つまり、一般的に「贈与」が見返りを求める行為では無いという前提に立って、「料理」=「贈与」であるならば、常にレストランで客が支払う金額 < レストランが提供する価値」という不等式が成り立つ。どうやらそういう意味かと思うが、このあたりは著者に直接確かめてみたいところである。私にはたまたま「農業というカタチ」にこだわりを持つ親しい知人が数人いる。なんとなく著者・橘氏にそのうち出会えそうな気がしている。そのような幸運に恵まれたならば、ぜひそのあたりのことを尋ねてみようと思う。

 

【第2章】まったく非文脈的に、個人的に召喚された「あの日」

 著者がかつて神戸で営んでいたワインバー「ジャック・メイヨール」で情報誌『ミーツ・リージョナル』の編集長であった江弘毅氏と出逢い、その江氏を通じた内田樹氏の著書『ためらいの倫理学』(幻冬舎)との出逢ったことについて熱く語られた章。著者と江氏を興奮させた内田樹氏の言葉とは次のものであった。

 師は弟子である私にはとても理解が届かない知的境位にいるのだけれど、その「理解の届かなさ」は、弟子である私に固有のものであって、私以外の誰も(師の知友も、ほかの弟子たちも)代行できないような「かけがえのない理解の届かなさ」だ、ということである。弟子の一人一人は、その弟子以外の誰によっても代替できないようなオリジナルな仕方で「師に理解が届かない」。そして、その事実が当の弟子たち自身の「かけがえのなさ」を根拠ふけるのである。

 著者はこの言葉によって、ある日突然にまったく非文脈的に哲学するようになった。そしてその日から著者は断片的な知識量の増大や緻密化を目指すのではなく、自分の中に「自分を含む世界の風景」のようなものを想像し構築しはじめた。そのことが淡路島で農業をするということに繋がった。そういうことではないか。

 

【第3章】農業に興味を持っている若い世代の人たちが増えているのはなぜか?

 若い世代は産業としての農業に興味を持っているのではない。おそらく農業の持っている本来の「生産する喜び」に気付いているのだ。農業において「生産」とは「自然からの贈与」を意味している。そのような「自然からの贈与」に対して、農家は「無償の労働」で返礼する。最近、若者が興味を持っている「農業」とは、贈与され贈与するというかたちの「連続性」、あるいは「循環性」なのだということか。

 

【第4章】都市生活者の、地方への移住

 ここでは都市から地方への移住者たる著者の立場から、地方への移住は『人間の社会というものが失いつつある「存在との有機的な繋がり」を回復しようとする試み』であるとの認識を示した上で、在来種や有機農業の問題に言及している。

 前章で述べられた贈与され贈与するというかたちの「連続性」あるいは「循環性」を追い求めた結果、地方に移住した農業者が有機農業に帰結する必然性はわかる。

 まずは在来種の問題である。

かつての日本のくらしは生活に密着した野菜、その種を、集落や近隣で共有し、贈与し、交換しながら、そのたびに行われる人為的な「選抜」を経て、その土地独自の形質を持つ野菜の「種」の「歴史的固定」に関わってきた。

 その地方の風土に適合し、人々に好まれ食べ続けられてきた野菜は、贈与と交換という連続性を持った手段によって選抜、淘汰され、「近交弱性」や「自家不和合性」を乗り越え遺伝的に安定たものだということ。贈与と交換を繰り返すという意味で「在来種」は緩やかに変化しているものであって、それは「固定されたと見做された」、本質的に不安定な「流動するもの」であるという著者の達識は私の腑に落ちた。

 当然のことながら、著者は商用の野菜としての作りやすさや経営性を追い求めてはいない。産業的に病気に強く効率よく作れるように開発されたF1種は再生産するもの、連続するものとしてのダイナミズムを失っており、そのような種をつかった農業に対して著者は疑問を呈する。

 そのような流れで地方へ移住する都市生活者の農業は有機農業へと進む。それは今や失われてしまいつつある有機的な繋がりを持った本来あるべき人間社会の回復を求める生き方だということだろうか。

 ここで本書とは少し離れ、新たな就農者が有機農業へと進む必然について、私なりの考えを記してみたい。著者が求めるもの、生き方を、私はよく分かる気がする。私は農家に生まれながら、代々受け継いできた田畑を耕作することなく、知人に管理をお願いしているばちあたりな人間であるが、山根成人氏を中心とした「ひょうごの在来種保存会」の周辺をうろうろしながら、当地の農業者との繋がりも幾分持っている。そのような私から見て在来種を大切にし、広く流通している食べ物の安全性を憂え、効率性や収益性よりも本来あるべき農業をキチンと考えていらっしゃる農家が多数あることは素晴らしいと感じている。そのような農家が増えていくことを願っている。ただ有機農業について考えたときに、求道者的な農家を見るにつけ、もうすこし緩やかでいいかげんな農業でも良いのではないかとのいささかの疑問を持つ。そうでなければ、有機的な繋がりを持った本来あるべき人間社会への回帰は望めないと思うからである。純粋に求道者的有機農業はたいへんで、とても広く一般の農家が真似をすることができるとは思えない。この世界、憂慮すべき今の状況を変えられる可能性があるとすれば、それはごく限られた求道者的有機農家ではなく、緩やかに循環社会を目指す一般的農家群であろうからだ。マルクスだってその優れた理論にかかわらず現実に世界を救えなかったのだ。

 

【第5章】有機野菜をめぐる、「陳列棚からはみ出している」ものについて

 序盤で述べられる「例えばカレーが好きな人間が毎日毎食カレーを食べ続けたとしたら、遠くない将来、身体の隅々までカレーで出来ていることになる。もし僕らが毎日、インスタントラーメンだけを食べる食生活を続けると、僕らはもれなくインスタントラーめんになる」という話は、ものを食べることの本質を現しており、いささかの気味悪さを感じさせながら食の重要性を言い当てた例え話として面白く読んだ。

 しかし、この章で語られる最も重要なことは、農業とは成長、拡大をめざす一般の産業ではなく、成長はせずとも安定して永続し、自然界と調和した循環の中にその本質があり、その循環の中に食も人々の暮らしもあるというところ。その意味で有機野菜という方向性は間違っていないと感じる。

 

【第6章】境界線とこちら側(1) 農業で「自給自足」する

 以下、第17章まで著者の熱い想いが語られていますが、ここからは方法論に入っていくかと思われるので、私の読書メモとしてはここまでとしておきたい。

 理解できたようで、分からないところが多い。もし著者にお目にかかれたら質問してみたいことがたくさんある。そんな機会が訪れるだろうか。