ウェルズの日記

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『ロセアンナ 刑事マルティン・ベック』(マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー:著/柳沢由美子:訳/角川文庫)

『ロセアンナ 刑事マルティン・ベック』(マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー:著/柳沢由美子:訳/角川文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

 

全裸女性の絞殺死体が、閘門で見つかった。身元不明の遺体に事件は膠着するかに見えた折、アメリカの地方警察から一通の電報が。被害者と関係をもった男が疑われるが――。警察小説の金字塔シリーズ・第一作

 

 

刑事マルティン・ベックロセアンナ (角川文庫)

刑事マルティン・ベックロセアンナ (角川文庫)

 

 

 警察ものの金字塔との名声高い「刑事マルティン・ベック」シリーズ全10作の記念すべき第1作目。このシリーズを読んでいなかったとは我ながら実に不覚でありました。ミステリーを沢山読んでいらっしゃるという知人Y.S.さんが大好きだと仰ったのでこのシリーズの存在を知ることとなりました。今日まで知ることのなかったのは著者がスウェーデンの作家だということも影響しているかもしれません。日本ではどちらかというとアメリカやイギリスなど英語圏の作家の小説の方が、他の言語で書かれたものよりも目に触れる機会が多い傾向があるように思います。

 さて、実は本書を手に取ったときになにかしら引っかかりを感じておりました。それが何かはその時にははっきりしなかったのですが、訳者・柳沢由美子さんのあとがきを読んでその原因がはっきりしました。それは題名となった事件の被害者の名「ロセアンナ」にありました。アルファベット表記で”ROSEANNA"。そう、英語読みするならば「ロゼアンナ」と濁るのが一般的なのだろうと思います。実際に以前、1975年に高見浩さんの訳で出版されたときには『ロゼアンナ』であったようです。高見浩さんは英語版からの翻訳であったそうだ。今回、柳沢由美子さんの翻訳は直接スウェーデン語からのものだといいます。それがどういう事情なのか? そのあたりのことを訳者あとがきから引きます。

 前の訳本のタイトルは『ロゼアンナ』だったと記憶する読者がいるかもしれない。そのとおり、英語から訳された ROSEANNA はロゼアンナと、SEの音が濁音だった。スウェーデン語にはザジズゼゾの濁音がなく、サシスセソとなるので、まずはタイトルから原語に忠実に『ロセアンナ』と訳することにした。地名と人名はすべてスウェーデン語の発音に準じた。

なるほどです。

 また、以前は夫婦の共作と紹介されていた マイ・シューヴァルとペール・ヴァールーですが、正確には結婚しておらず同棲だとのこと。このあたり宗教的な束縛からの自由が時代のムーヴメントとなり「フリーセックスの国」として有名になりつつあった1965年当時のスウェーデンの世相を映し出しているようで興味深い。日本の出版社が同棲と知っていたのかどうか。1975年当時の公序良俗を慮って敢えて同棲を夫婦と伝えたのならそれこそ興味深い。そこまでは考えすぎでしょうけれど。

 さて、本題の小説の中身ですけれど、抑えの効いた書きぶりでシブイ警察小説です。エド・マクベインの「87分署シリーズ」に似たテイストの小説で、登場する刑事は主人公も含め普通の人。人間臭く欠点もある。容姿がカッコイイ訳でもなく、超人的な強さを持つ人でも天才的な頭脳を持つ人でもない。いわゆるヒーローではないのだ。それがかえって事件解決までの過程にリアリティーを与えている。そして、第一作の主役は主人公マルティン・ベックではなく、導入部分で被害者として死体となって登場したロセアンナである。1965年当時としては最も進歩的だといえる生き方、経済的自立と性の自由とを獲得し男性に頼らず生きる女性として描かれている。死後、ロセアンナを知っていた人たちからの聞き取り調査で明らかになった人間像。知的で古くからのキリスト教的束縛や固定観念から解放されており、あくまで論理的に正しいことを信奉し、自分に正直に自立と自由を重んじる女性。この女性像があったればこそ、第1作目にして絶大な人気を博したのだろう。しかしその後の社会の変化は急激で、今となっては「ウーマンリブ」という言葉も死語となっている。その意味で本書は既に古典的存在となっており、味わい深く読めるのもおそらく私の世代が最後だろう。今の若い人には正直なんのことかわからないのではないか。

 さて「刑事マルティン・ベック」シリーズ全10巻は古書ではあるが私の手元に揃っている。今も「87分署」シリーズを少しずつ読み続けているように、これから少しずつ読んでいくことになるだろう。本作は柳沢由美子さんの新訳で読んだが、高見浩さんの訳でも読んでみたいところ。時間が欲しい。読まずに死ねるか、読むまで死ねない、ですな。