ウェルズの日記

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『地獄変』(芥川龍之介・著/ハルキ文庫)

地獄変』(芥川龍之介・著/ハルキ文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

地獄変の屏風絵を完成させるために、娘を見殺しにする天才絵師・良秀に、芥川自身の芸術至上主義を重ねて語られることの多い表題作「地獄変」をはじめ、藪の中で発見された男の死体について複数の人物の独白という形式で語られる、ミステリー要素の強い「藪の中」、腑甲斐ない女の魂を描く「六の宮の姫君」、夜空に消える一閃の花火に人生を象徴させた「舞踏会」の全四篇を収録。芥川作品の魅力にぐっとくる名作集。

 

地獄変 (ハルキ文庫 あ 19-2 280円文庫)

地獄変 (ハルキ文庫 あ 19-2 280円文庫)

 

 

 本書を読むきっかけになったのは『去年の冬、きみと別れ』(中村文則・著/幻冬舎文庫)を読んだからだ。作中、何度も芥川の『地獄変』が出てきたのだ。自分の創作欲のために実の娘が日に焼かれるのをも見殺しにする絵師の話。読んでみたいような、読みたくないような。でも読んでみたいってことで読みました。

 4つの短編が収められており、その中には北村薫さんのミステリの題材にもなった『六の宮の姫君』があるではないか。これも読まなくてはと思っていた小説でした。

 さていきなり余談になるが、最初の頁で「群盲の象を撫でるようなもの」という諺を発見。恥ずかしながらその意味を知らず調べてみた。

群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす、群盲評象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。世界に広く広まっている。真実の多様性や誤謬に対する教訓となっているものが多い。盲人が象を語る、群盲象をなでる(群盲撫象)など、別の呼び名も多い。
その経緯ゆえに、『木を見て森を見ず』 と同様の意味で用いられることがある。 また、『物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまう』 ことの、例えとしても用いられる。 

  おそらく体に障害を持つ人への差別的な表現と取られることを怖れて学校などで積極的に教えないのではないか。マスコミや出版業界でも検閲して自主規制しているという。寓話として優れているだけに、このような表現が世の中からどんどん削除されていくとすると寂しいことだ。そういえば最近は「ブラインドタッチ」と言う言葉を聞かなくなった。まさに「言葉狩り」状態です。まことにバカげたことです。

 本題の小説について、まず「地獄変」ですが、狂気ともいえるほど突き抜けた何かを持つものを芸術や美と呼ぶならば、これほどの耽美はあるまい。このような話は正気の人間からは生まれ得ない。小説としてスゴイが私は二度と読む気がしない。

 続いて「藪の中」。あることについて複数の人間から話を聴くとまったく違う情景を聴かされ、いったい誰の話が真実なのかわからないといった類いの話はよくある。この話はそうしたことを上手く表現したミステリとして秀逸。

「六の宮の姫君」については、人間誰しも生きるためには食べなければならないし、着るものだっている。この時代に女が経済的基盤を持つとすれば、男に通わせるしかない。そのための手練手管を磨くことがその時代に生きる女のすべきこと。仮にそんなことにまったく興味を持てない、ある意味無垢な童女のような女がいたとして、そのような女が辿る末路を描いた小説。芥川はこの女を批判的に書いたのか? 否、文章を読む限りそのような意図は感じられない。彼は無垢なままでは生きることが出来ない現世というものに絶望していたのではないか。もし芥川が現代に生きていたら、さらに絶望の度を増しただろう。なにしろ現代において「生命」は最も大切にされるべきものであり、徒やおろそかにすることなどけっしてできない。私などは生きることより矜持や名誉のほうがよほど大事だと思うのだが、私の見るところ、現代においてはまず「命」、次に「金」が大切であり、他のものをかなぐり捨ててでもその二つを追いかけている。まことに浅ましく見苦しいことだ。「六の宮の姫君」は悲話ではあるけれど、意に沿わぬかたちで男に遜ることをしない姫の姿にひとつの美のかたちを見出すことが出来る。

「舞踏会」については書く必要を感じない。