『まぼろしのパン屋』(松宮宏・著/徳間文庫)を読みました。
まずは出版社の紹介文を引きます。
朝から妻に小言を言われ、満員電車の席とり合戦に力を使い果たす高橋は、どこにでもいるサラリーマン。しかし会社の開発事業が頓挫して責任者が左遷され、ところてん式に出世。何が議題かもわからない会議に出席する日々が始まった。そんなある日、見知らぬ老女にパンをもらったことから人生が動き出し……。人生逆転劇がいま、始まる!
他、神戸の焼肉、姫路おでんなど食べ物をめぐる、ちょっと不思議な物語三篇。
松宮宏、この作家さんの名を忘れていた。しかし、プロフィールを読むと『秘剣こいわらい』の作者だと判る。私はその小説を2013年2月10日に読んでいる。
ひょこむ::そんな眼をして俺を見るんじゃない、ランシング - 秘剣こいわらい
そうかすっかりご無沙汰であった。5年前に『秘剣こいわらい』を読んだ時は、荒削りで未だ海のものとも山のものともつかぬがひょっとしたら化けるかもと思った記憶がある。その後、続編『くすぶり亦蔵 秘剣こいわらい』が上梓されたが、私は気づかずスルーしてしまっている。これも読まねばなるまい。
さて、本書『まぼろしのパン屋』である。食べものにまつわる短編が三つ収められている。いわゆる人情噺といって良いのだろうが、何か風変わりなものを感じる。それはヘタをすればそれが違和感となって読むことを楽しめない種類のものである。食べもので言えば、口に入れた瞬間「ん、なんだこれは?」とちょっとしたクセを感じることがあるが、それである。それがその料理の良さなのだが、人によってはそのクセが気に障って箸を置いてしまう類いのものだ。そのクセは松宮氏の独特の視点に帰せられるものだが、もう一つ、文章の荒さにも起因している気がする。特に第3話『こころの帰る場所』など、播州弁で書かれていることもあって読みにくいこと甚だしい。もちろんこの小説の世界観を出すために必要な手段なのだろうが、播州弁をはじめディープな関西弁は小説に向かない。なぜだろう。
(追記)
播州弁で書かれた小説で播州弁で書かれたことが成功を収めているのは車谷長吉氏の『灘の男』ぐらいなものだろう。あれはそうする必然性がある。