佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『コンビニ人間』(村田沙耶香・著/文藝春秋)

コンビニ人間』(村田沙耶香・著/文藝春秋)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

第155回芥川賞受賞作!36歳未婚女性、古倉恵子。大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。オープン当初からスマイルマート日色駅前店で働き続け、変わりゆくメンバーを見送りながら、店長は8人目だ。日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。仕事も家庭もある同窓生たちからどんなに不思議がられても、完璧なマニュアルの存在するコンビニこそが、私を世界の正常な「部品」にしてくれる――。ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、そんなコンビニ的生き方は「恥ずかしくないのか」とつきつけられるが……。現代の実存を問い、正常と異常の境目がゆらぐ衝撃のリアリズム小説。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

 子供の頃、自分を周りに合わせるのに苦労した経験を持つ私にとって、本書は忘れなければならない過去を呼び覚ましてしまうものだ。当時、家族を含む周りは私を矯正しなければならないという確固たる意志をもって動いていた。幸か不幸か私は今、社会に適合している。その度合いは周りからみて十分すぎるほどだ。たまに本当の自分を隠しきれずぶっ飛んだ考えを表明してしまうことがあるが、それを周りは許容できる程度の多様性と好感するようだ。本書は無垢であった過去の私を蘇らせ、今の私に「このウソつきめが!」と迫ってくる。少々居心地が悪い思いをしながら読み終えた。

 本書において「コンビニ」は「マニュアル」の象徴。そして「マニュアル」はそれに沿った行動が正しいとの御墨付きである。「マニュアル」に従って行動している限り他者から非難される危険はない。他者からどう思われるかを気にして落ち着かない病に罹ったら、その処方箋はずばり「マニュアル」である。しかし「マニュアル」は少しずつ自分を殺していく。乱暴な言い方ではあるけれど、本書で著者が書きたかったのはそういうことかと思う。

 本書において、著者は読者に「いったい”普通”(あるいは”正常”)とはどういう状態のことなのか?」という疑問を投げかけてくる。死んだ小鳥を焼き鳥にして食べようと言うことは異常。(実際に多くの人がそう感じるだろう) その小鳥を弔うために地中に埋め、花を手向けることは正常。その花は厳しい自然環境の中で生を得て花を咲かせているにもかかわらず、たまたま死んでしまった小鳥のために摘み取られることになる。死んだものを食べようとする行為(A)と、死んだもののために生あるものの命を絶ってしまう行為(B)とでは、いったいどちらが正常なのか。無垢(innocent )な状態で判断するならば(A)が正しいのではないだろうか。少なくとも(B)は論理的に矛盾している。しかし、「色鮮やかでかわいい小鳥がかわいそうなことに死んでしまっている。死んだ小鳥の側には美しい花が咲いていた」という状況において、多くの人はその小鳥を葬り花を手向けるという行為を思いやりのある行為として好感する。その「多くの人がその方が良いと感じる行為」が曲者なのである。「死んだ小鳥に花を手向ける」=「多数派」、「死んだ小鳥を焼き鳥にして食べる」=「少数派」。それが常識というものの姿である。多数派が常識という力をもって少数派を矯正(あるいは排除)しようとする。そのことの是非を本書は問うている。

 普通でない主人公はマニュアルに従い、きびきびと仕事をこなす。マニュアルが主人公の行為の正当性を保証してくれるからだ。一方、同僚である普通の人はマニュアルが守れず、仕事そっちのけで噂話に花を咲かせている。いったいどちらが普通なのか。「普通」「正常」「常識」「あたりまえ」といったものの持つ不条理を考えさせられる。