佐々陽太朗の日記

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『蜻蛉始末』(北森鴻・著/文春文庫)

『蜻蛉始末』(北森鴻・著/文春文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

明治十二年、政商・藤田傳三郎は贋札事件の容疑者として捕縛された。その十七年前、高杉晋作の元に集まる志士たちの中に傳三郎がいた。幼馴染みの“とんぼ”宇三郎が影のように寄り添う。奇兵隊結成、禁門の変…幕末から明治にかけての激動の世の中で「光」と「影」の宿命を負った二人の友情と別離、対決を描く傑作歴史長篇。

 

蜻蛉始末 (文春文庫)

蜻蛉始末 (文春文庫)

 

 

 

 明治に起きた「藤田組贋札事件」に題材をとった歴史ミステリーが本書である。”とんぼ”宇三郎は北森氏の想像の産物であって実在したモデルはないと考えて良さそうだ。謎が多い「藤田組贋札事件」に宇三郎という架空の人物を介在させることによって事件の空白を埋め、劇的な物語に仕上げているところが素晴らしい。
 傳三郎と宇三郎は固い絆で結ばれている。出版社の紹介文では二人の関係に「友情」という言葉が使われているが、その絆は友情ではあり得ないだろう。きっちりと上下関係があり、友情というには想いの方向が一方的に過ぎるからだ。二人の関係はまさに「光」と「影」であり、表舞台で光りを浴びる人間と影勤め(陰守り)の関係といえる。そしてまたこの物語は、傳三郎(光)と宇三郎(影)だけの物語でなく、倒幕、明治維新、そして西南戦争と時代が大きな渦となって変わる中、眩いばかりの光を放った人物達と、彼らが輝くためにあえて影に回った人間や、時代の流れと運命に抗えず陰となった者達を鮮やかに描いた物語でもある。ここに描かれているのは志士たらんとした者達の心の揺らぎ、裏切り、変節、欲による薩摩閥と長州閥の暗闘だ。登場人物の人品が際立って描かれているのも、山口県出身の北森氏ならではのことだろう。史実や現在に伝わる人物評をうまく織り交ぜながら、あたかも歴史小説ではと思わせるほどのフィクションとなっている。北森鴻の最高傑作と評する読者も多いに違いない。

 以上のように、この物語は幕末から明治にかけての長州藩出自の志士たちの愛憎劇である。志士たちの中には志半ばで倒れた者があれば、変節の末に権力の座に着いた者もあり、変節の動きに叛き義憤のうちに死んでいった者がいる。志士たらんとして清廉であったはずの傳三郎が変節してしまった一方、志などつゆほどもなく小狡い虚言癖のある男で周りから蔑まれた宇三郎が自分なりの節義を守ったという皮肉。志と変節、それを語った一節が特に印象的だったのでここに引いておく。

 ―――六さんもまた、幾助さんと同じように食われてしもうちょる。

 今や、宇三郎は、傳三郎や中野梧一を食い荒らすものの正体をはっきりと見た気がした。明治とは、新しい時代の名前などではない。ただの化け物だったのだ。人々を食らい、その血肉で大きくなってゆく化け物だ。傳三郎は、自ら明治という生き物を飼い慣らしているつもりになっているが、実は奴に既に食い荒らされているのである。同じく食い荒らされたものの、なんとか元の自分を取り戻そうと、大賀幾助は九州へと旅だったのだ。(P393より)

 

 ”とんぼ”宇三郎は変節してしまった”六さん”傳三郎”を憎みつつ、まさに命つきようとしたその時まで”六さん”のことを想って逝った。なぜそこまで・・・という疑問は残る。それを友情という言葉で片付けてしまえば簡単だが、前述のように友情というには想いが一方的に過ぎる。おそらく宇三郎にとって傳三郎は自分だって少しは価値のある人間なのだと考えるためのよすがだったのではないか。誰一人として自分を人として扱ってくれず蔑まれる中で、傳三郎だけは口汚く罵ったり殴ったりはするが自分に本気で接してくれた、そういう思いだっただろう。そして傳三郎にとって宇三郎がどういう存在だったのかを現した一節があるので引いておく。

 清廉潔白に生きねばならぬとする傳三郎がいる一方で、人はそれほど清いものではないと嘲嗤う傳三郎がいる。それはすなわち≪とんぼ≫こと宇三郎ではないのか。

 このときからである。周囲から馬鹿にされる≪とんぼ≫を庇いつつ激しく憎み、憎みつつ庇い続けるようになったのは。(本文P51より)

 明治維新という時代の「光」と「影」。北森氏はそれを見事にミステリとして描ききった。まさに極上の一冊でした。

 以前から読みたいと思っていた司馬遼太郎の『花神』を読みたくなった。分厚い文庫で上・中・下の3巻立てであるが読むとすれば今だろう。あぁ、本の海は広く、人生はあまりに短い。