佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『人生の目的』(五木寛之・著/幻冬舎文庫)

『人生の目的』(五木寛之・著/幻冬舎文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

私もまた灯火なき暗夜に生き悩む人間の一人である。私たちがこの暗さに耐えて生きるためには、あたりを照らす灯火を探さなければならない。それを「希望」と呼ぶか、「人生の目的」と呼ぶか、または「信念」と呼ぶか、それは各人の自由である。雨にも負け、風にも負け、それでもなおかつ生きつづけるための心のなかの何かである(本文より)。人は何のために生きるのか。すべての人びとの心にわだかまる問いを、わかりやすく語る、人生再発見の書。

 

人生の目的 (幻冬舎文庫)

人生の目的 (幻冬舎文庫)

 

 

 読む前に感じていたのは『人生の目的』とはあまりに直情径行的ネーミングではないかということ。だがそこにこそ著者の意図がこめられていたとは。著者の思いが綴られた部分を引いて、著者が本書を記した意図を紐解いておこう。

 私もまた灯火なき暗夜に生き悩む人間の一人である。私たちがこの暗さに耐えて生きるためには、あたりを照らす灯火を探さなければならない。どんなに小さな灯でも、それが力になるだろう。それを「希望」と呼ぶか、「人生の目的」と呼ぶか、または「信念」と呼ぶか、それは各人の自由である。しかし、それは年金や保険のように、かたちのあるものではない。地震や、戦争や、病気や、人間関係や、もろもろの出来事に絶対に負けない方法(ノウハウ)でもない。むしろ、雨にも負け、風にも負け、それでもなおかつ生きつづけるための心のなかの何かである。それを仮に「人生の目的」と名づけてみただけだ。あまりにも正面切った古風な文句で、いまの時代には野暮の骨頂と笑われかねない題名だと自分でも苦笑する気持ちがある。しかし、野暮でもいい。月並みでもかまわない。人生をギャグで茶化すのもひとつの知恵だが、ここでは最近もっとも流行らない正面切ったやりかたで大事なことを考えてみようと思う。

 ともあれ、人生にはたして目的はあるのか。

 まず、そこからはじめるしかなさそうだ。

                   (本書 P28~P29 抜粋) 

 

 もちろん人生に決まった目的などあろうはずはない。人生はそれぞれで、それがどうなるかは全く予測が付かず、その意味で思い定めようがないだろう。人間とは不自由なものであり、人はそれぞれ不公平と理不尽の中で生きている。人生は母の胎内から出生した瞬間から、いやむしろその前、受胎したときからそれぞれ違った環境条件を与えられてスタートする。不公平だろうがなんだろうがそれが現実であり、人はそれを願いや祈りで、あるいは努力や誠意で変えることはできない。本書の素晴らしいところは、けっして気休めを言うこと無く、運命と宿命と理不尽とを受容し、生きるということを真正面から捉えているところである。世に蔓延る似非宗教の書ではない。

 いささか唐突なことを書くが、立川談志は弟子に「修行とは矛盾に耐えること」と言ったという。私はそれを『赤めだか』(立川談春・著)で読んだ。私は「矛盾」を「理不尽」と置き換えてそれを読んだ。おそらく談志は人それぞれが不公平と理不尽を受け入れて生きるしかないことを知っており、それに耐えろと言ったのだと思う。自分ではどうしようもないことを嘆くより、それを受け入れて、ではそこから自分はどうするのか、どう生きるのかを考えよ。それが修行だと言ったのではないかと想像する。

 さらに身も蓋もないことを書くが、私にはおよそ宗教心というものがない。私が歴史から学んだのは「世の戦争、争いごとの多くに宗教が少なからず関係しており、宗教はけっして人々を幸せにしないこと」である。その意味で私は宗教を否定してきたし、毛嫌いすらしてきたのである。しかし本書を読んで、それは信者の心の中にあるものが災いしているのであって、宗教の本願はそこに無いことが分かった気がする。私はこれまで帰依すべき宗教家に出会わなかった。しかし、「人生の目的」を考えるうえで大きな影響を受けた人や書物に出会っている。そうした偶然、見えない力が「他力」なのだと今私は本書を読んで理解している。

 そして、本書を読んで五木氏から私が学んだのは「自己の運命と宿命を受け入れたうえで、なんとか生きること。苦しくても、みっともなくても生きつづけること。人生の目的が何であるかは分からないが、人生の目的の第一歩は生きること」だということである。