佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

平成から令和に変わる夜を「湯宿 さか本」で過ごす

2019/04/30

「湯宿 さか本」この宿を知ったのはおよそ二年半前、『日本の朝ごはん』(向笠千恵子・著/新潮文庫)を読んでのことである。 

日本の朝ごはん (新潮文庫)

日本の朝ごはん (新潮文庫)

 

 

 向笠さんが最高という朝食をぜひ食べてみたい。その思いをずっと持ち続けてきたのだ。『日本の朝ごはん』の単行本が上梓されたのは平成6年1月、ということはかれこれ25年が過ぎている。もう変わってしまっているかもしれない。いやきっとさらに良くなっているのではないかと期待に胸をふくらませ早めに宿に入った。

 淡い紺色ののれんをくぐり格子戸を開けると掃き清められた三和土。廊下と柱は漆黒に光っておりうす暗いが自然の光が差し込み凜とした美しさがある。左手に目をやると石をくりぬいた水舟に山野の花が投げ入れてある。「ごめんください」とおとないを入れるとしばらくして奥から従業員らしい女性が出て来た。まだ午後3時になるかどうかの時間であったので、「少々早く着いたのですがよろしいですか」と尋ねると、「まだ囲炉裏に火を入れていませんがどうぞ」と二つある二階の部屋の一方に案内された。

 テレビも電話もなく鏡台と行灯だけが調度の簡素な部屋にふかふかの蒲団が敷かれている。窓の向こうの庭木の新緑がまぶしい。「お風呂は四時から入れます。よろしければそれまで庭の向こうにあるゲストハウスでお過ごし下さい。夕食は六時半頃からです」とだけ言い置いてその女性は引き下がった。なるほどあまり客にかまわない宿らしい。上質の宿というと至れり尽くせりのサービスを思いうかべるが、こうして放っておいてもらえると逆に気疲れせずに済むことに気づいた。部屋の調度と同じく余計なものは何もない宿で、そこにあるのはシンプルな美と静けさである。

 階下の厠にたつ。廊下は丁寧に拭いてあり、庭の景色が鏡のように映るほど黒光りしている。

 厠と洗面所は共用だ。洗面所の水は冷たく湯は出ない。それどころか洗面所の窓にガラスをはっていない。冬の寒い時季には凍えるほどだろう。しかし考えてみれば自然の中で暮らすとはそういうことで、四季折々の気候、風にそよぐ木々の音、雨の湿り気、小鳥のさえずり、一日とて同じことのないその日その日の自然を感じられるはずだ。今時、流行らないスタイルだろうが気に入らなければ泊まらなければよい。世のすべてはトレードオフの関係にある。何かを得るということは何かを失うことと同義である。われわれは快適性を得んがために、日々のふとした感覚を鈍らせてしまっていることに気づかされた。

 庭に散歩に出る。敷地は十分な広さで、道路からの車の音など雑音は一切入ってこない。聞こえるのは小鳥のさえずりだけである。宿の奥の方に犬が寝そべっていた。犬の寝そべっている所の奥には金網があり鶏が飼ってあった。どうやら鶏が襲われないように見張っているつもりのようだ。試しに鶏小屋のほうに近づいてみたが、おとなしく人には吠えない。賢い犬だ。

 庭の東の方に池があり、その側にゲストハウスがあった。室内に入ると床暖房が効いており暖かい。オーディオセットのプレイボタンを押すと柔らかい音のジャズが流れてきた。珈琲を点てると部屋一杯に良い香りが漂った。池に向かって置いてある長椅子に躰を横たえ、音楽を聴きながら本を読む。極上の時間が流れる。

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 ゲストハウスでまったりとした時間を過ごし、宿にもどると囲炉裏に火が入れてあった。それだけでずいぶん暖かくなっている。二階の部屋も充分暖かい。窓からの光で部屋はまだ明るい。夕食までの時間は部屋で寝そべって本を読むことにした。こんな時間こそ贅沢に思える。テレビもラジオもないので、宿の人が働く音と他の客の動く音が微かに気配として聞こえてくる。人がどのあたりに居るか、どんな話をしているかが聞こえるのは新鮮な気分だ。そういえば私が子どもの頃、うちの家もそうだった。懐かしさに鼻の奥がツンとなる。

 

 六時半を十分ほど過ぎて声がかかった。食事の準備が出来たようだ。階段を降りていろり端のテーブルにつく。テーブルは低く板場に座布団を敷き座るタイプである。

  今日の客は3組6人である。はじめましてと同じテーブルを囲む。最初はお互いの連れあい同士の会話のみでややぎこちないものの、次第に打ち解けて少しずつ皆が共通の話題で話し始める。お互いこうした宿を選んだ者同士、何かしら共通した呼吸がある。お互いさりげなく気づかいながらも立ちいりすぎず、心地よい距離を探るといえばよいのだろうか。一組は秋田から来たという秘湯めぐりを趣味とする夫婦、もう一組は京都から来たという若い女性ふたり。良い方たちと同宿できた。

 まずは酒。「立山 純米吟醸」を頼んだ。この三日間目にした立山連峰の美しさを思い返しながら呑むのもよいだろう。食事ははじめに蕎麦が出て来た。誰識らず「おっ」という声があがる。その声ははじめに蕎麦が出てくる意外性に対するものであり、同時にその蕎麦の美しさへの感嘆でもあろう。つづいてタラの芽の天ぷら、湯葉豆腐、酢の物和え物、真薯と山菜の天ぷら碗と心づくしの料理が頃合いをみて出てくる。

 刺身はキジハタとカサゴですと告げられた。関西の私にはアコウとガシラと言ってもらった方がピンとくる。どちらもうっすらピンク色をまとった白身がまぶしい。キジハタの旬は夏というイメージが強いが、厳しい冬を過ごし春を迎えた能登のキジハタは楚々として滋味に溢れる。カサゴはまさに今が旬。瀬戸内あたりに多い魚だろうが能登半島はおそらく北限だろう。けっこう身が大きい。ひょっとしてウッカリカサゴかもしれない。あっさりしているようで、噛むほどに味わい深い。酒がスイスイ進んでしまう。

 次に出て来たのは筍煮。これはご当地の酒「宗玄」と合わせてみたい。「初桜」をお燗してもらった。当然、相性はぴったりだ。筍は大ぶりのものを煮てある田舎風。この時季、穫れたての地物であればこうした大ぶりのもののほうがうまい。高級料亭で食べるような小さく柔らかいものは野趣に欠けるのである。野趣あふれるとはいえ、よい出汁で丁寧に煮ふくめてある。結構な量があったがペロリと平らげてしまった。大ぶりの器を手に取って出し汁を飲みたい誘惑にかられたが、すました顔で辛抱する。

 焼き物は甘鯛味噌漬け。おそらく若狭湾のものだろう。これも「宗玄 初桜」に出会うと最高の相性とわかる。

 〆は焼きおにぎりと漬物。ほどよい塩加減と芳ばしさをまとったおにぎりを頬張るとつくづく日本人に生まれた幸せを感じる。ごはんの炊き具合が良いのだ。こうしたものはシンプルなだけにごまかしが利かない。料理人が神経をゆきわたらせてつくっていることがわかる。

 器にも注目したい。朱と黒の塗り碗は蛍光灯で無く白熱球の暖色のあかりのもとで美しい。谷崎潤一郎が言った『陰翳礼讃』の美である。

 まさに平成の最後を飾るにふさわしい夕餉でした。

 テレビも何もない宿のこと、食事の後は部屋に戻り幸せにつつまれながらぐっすりやすみました。

 

 

 私の拙い文で宿のことをあれこれ書いてしまいました。ひょっとして宿のご主人やスタッフの方の意に沿わないことを書いたかもしれません。しかしこの日の感動を日記として是非とも書き残したく、また少数ながら私のブログを読んで下さっている方々にお伝えしたい一心で書いております。ご寛恕いただければ幸いです。

 

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