佐々陽太朗の日記

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『如何なる星の下に』(高見順・著/講談社文芸文庫)

『如何なる星の下に』(高見順・著/講談社文芸文庫)を読みました。否、正確には途中で投げ出しました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

高見順が捉えた昭和十年代の浅草

さらなる戦争へと突き進む時代、浅草に移り住み明と暗の物語を紡いだ高見順の孤高なる「慕情」を窺い知れる代表作

昭和十三年、自ら浅草に移り住み執筆をはじめた高見順。彼はぐうたらな空気と生存本能が交錯する刺激的な町をこよなく愛した。主人公である作家・倉橋の別れた妻への未練を通奏低音にして、少女に対する淡い「慕情」が謳い上げられるのだった。暗い時代へ突入する昭和初期、浅草に集う人々の一瞬の輝きを切り取り、伊藤整に「天才的」と賞賛された高見順の代表作にして傑作。

坪内祐三
浅草は大阪人である川端康成武田麟太郎の旅情を刺激する。しかし東京人である高見順はそのような「旅心」をおぼえない。しかも、東京人でありながら、山の手っ子である高見順は浅草にそのまま同化することが出来ない。異人である。旅人でもない異人が浅草に部屋を持つ。その時その異人に見えてくる風景は?それが『如何なる星の下に』で描かれている(略)――

※本書は、中央公論社『日本の文学57高見順』(昭和40年5月刊)を底本としました。

 

如何なる星の下に (講談社文芸文庫)

如何なる星の下に (講談社文芸文庫)

 

 

 

  高見順氏の小説を読むのは初めてである。私は高見順という作家を知らなかった。本書を読むきっかけになったのは五木寛之氏の評論『人生の目的』を読んだ際、その中に「昔は星まわりの善し悪しを言う人がずいぶん多かった。・・・(中略)・・・ そういえば高見順という作家に『如何なる星の下に』という題の作品があった。この小説にも宿命という、どうにもならない人間が背負った重いものへの、やりきれないため息が流れているように思う」という記述があり興味をもったのである。

 読んでみてがっかりである。舞台は昭和10年代の浅草。浅草に仕事部屋を間借りした中年作家・倉橋が別れた妻への未練を持ちつつ、踊り子の少女に恋慕の情を抱く。浅草の芸人や物書きたち、その他住民との交流、浅草の持つ混沌の不思議な魅力とそこに住住む宿命への諦念を前衛的・実験的な手法で描いたということなのだろう。

 私小説だかプロレタリア文学だか知らないが、ぐだぐだと無秩序に書き殴った文章は読みづらく美しさのかけらもない。安っぽいヒューマニズムなどまっぴらごめんだし、自己憐憫のニオイがプンプンというのはいただけない。

 確かに高見順の時代はあったのだろう。しかし、戦後に生まれ、高度成長期に育ち、平成、令和と生きてきた私には無縁だということだろう。