佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『夜空の呪いに色はない』(河野裕・著/新潮文庫nex)

『夜空の呪いに色はない』(河野裕・著/新潮文庫nex)を読みました。

まずは出版社の紹介文を引きます。

かつて子どもだったすべての大人たちへ。

郵便配達人・時任は、階段島での生活を気に入っていた。手紙を受け取り、カブに乗って、届ける。七草や堀を応援しつつも、積極的に島の問題には関わらない。だが一方で、彼女は心の奥底に、ある傷を抱えていた……。大地を現実に戻すべく、決意を固める真辺。突き刺さるトクメ先生の言葉。魔女の呪いとは何か。大人になる中で僕らは何を失うのか。心を穿つ青春ミステリ、第5弾。

 

夜空の呪いに色はない (新潮文庫nex)

夜空の呪いに色はない (新潮文庫nex)

 

 

 

 本作の表紙は郵便配達員・時任である。それは彼女が本作で鍵となる人物だということを表している。魔法によって傷ついた彼女の過去。その過去が大地とその母の人生に大きく関わっていたとは・・・。

 階段島シリーズも本作をもって第5作。次作『きみの世界に、青が鳴る』で完結するそうなので、これまでに敷かれた伏線が前作あたりから少しずつ解き明かされ回収されていっている。

 著者はこのシリーズ第1作『いなくなれ、群青』を上梓したときに、読者に対して次のようなメッセージを発している。

漠然と覚えているあやふやな風景や、音楽や、匂いと同じように、漠然と覚えているあやふやな感情があります。その感情は喜怒哀楽のどれにも分類できないし、辞書にも載っていないし、名前さえないものです。
この小説は、あやふやな感情を、あやふやなままできるだけ丁寧に描写したくて書きました。
本書にはとても純粋な少年と、とても純粋な少女が登場します。そしてふたりのあいだにはきっと、名前さえないくらいに純粋な感情があるのだと思います。

 

 この物語(シリーズ)は、階段島という奇妙な島を舞台に展開される。階段島は捨てられた人が行き着く謎の島で、魔女の魔法によって作られた島である。島は7平方キロメートル程度の小さなもので、地図には載っていない。捨てられた人とは、他人に捨てられたということでは無く、自分によって”自分の一部が”捨てられたのである。島にやってきた者はこの島にやってきた経緯、つまり自分が”捨てられた”経緯を覚えていない。この島には二千人ほどの人が住んでいる。島の暮らしはのどかで平和であるが、なにかしら不穏なものを内包している。

 ”自分の一部を捨てる”とはどういうことか。それは人が成長する過程でなくしてしまうものかもしれないし、たとえば弱かった自分が強くありたいと願い自分を造り変えるといったことかもしれない。また大人になることを考えたときに、子どもの頃に持っていた純粋な感情を失っていく、それも自分の一部を捨てたことなのかもしれない。それは本来の自分らしさみたいなものを無くしてしまうことかもしれないし、自ら成長することあるいは変わることを選択することかもしれない。今はそうではないが、こうありたいと思う自分がいたとして、そうした自分に変えていく(成長する)ためには、現在と過去の自分と決別する(捨てる)必要がある。何かを得るためには何かを捨てなければならない。それがたとえ何も得ないということを選択したとしても、何かを得るという選択を捨てたことになる。人は生きていく中でどうしようもなく失い続けている。

 この物語は否定から始まった。自分の一部を捨てるという行為から始まっている。しかし捨てられた自分はけっして抹殺されたわけではなく階段島で生きている。そして自分の一部を捨てた者は自分の一部を捨てることで現実世界で幸せに生きているのか。現実世界は理想に一歩近づいているのかというと必ずしもそうではない。

 理想どおりの世界などない。争いの無い世界などどこにも無いように、哀しみや傷みが全く無い世界など実現しようが無い。そうだとわかっているのに、世界が理想どおりじゃないことが苦しくて、皆が幸せじゃないことが納得できなくてもがき続け、それでもなんとかなるのではないかと考え続ける者達。この物語はそうした者達の物語だ。

 著者は「とても純粋な少年と、とても純粋な少女のあやふやだけれど純粋な感情を描きたかった」と言った。主人公の七草と由宇だけでなく、この物語に登場する人物は皆、純粋である。何も知らず何者にも汚されていない無垢というのではない。若くても大人になると言うこと、失うと言うことがどういうことか知っている。たとえ十分な経験がなくとも、世界が完璧でないことを知っている。どうすれば良いか解らないからといって虚無的な態度に逃げるような浅はかなバカでもない。あくまでひねくれたりひがんだりすることなく知的で、物事を真正面からとらえている。前向きである。自分の一部を捨てるという行為すら前向きだと思える。否定から始まった物語は登場人物がその物語を否定することによって肯定に変わる。おそらくこの物語は悲劇では終わらない。

 このように書きながら、私はこの物語を充分に理解できているとは思えないでいる。次作完結編で私がこの物語を理解できるのかどうか、それは読んでみなければ解らない。ただ、如何なる結末であれ、この物語を理解できるか否かにかかわらず、私が読むことを愉しむことだけは確かだと断言できる。存分に愉しませていただこう。はてさてどうなることやら。

 

 これまで読んだシリーズ四作のレビューを書いたURLを記載しておく。

 

第一作『いなくなれ、群青』

交流広場SNS::そんな眼をして俺を見るんじゃない、ランシング - いなくなれ、群青

 

第二作『その白さえ嘘だとしても』

http://blog.hatena.ne.jp/Jhon_Wells/jhon-wells.hatenablog.com/edit?entry=8454420450097477610

 第三作『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』

http://jhon-wells.hatenablog.com/entry/2017/02/19/222916

 

第四作『凶器は壊れた黒の叫び』

http://jhon-wells.hatenablog.com/entry/2017/04/15/045007