2020/07/06
『経済学は人々を幸福にできるか』(宇沢弘文:著/東洋経済新報社)を読みました。
まずは出版社の紹介文を引きます。
2003年刊の底本『経済学と人間の心』(四六版上製)の新装版。
著者は市場メカニズムや効率性の重視に偏った考え方を批判し、人間の尊厳や自由を大切にした経済社会の構築を訴えてきました。
実際、2000年代後半のリーマン・ショックや世界経済危機を経て、「人間が中心の経済」という思想はますます輝きを増しています。同時に、幸福な経済社会を作るうえで、経済学がどのような役割を果たせるかという議論が巻き起こっています。
新装版では底本の構成をガラリと変え、未公開の講演録2本を追加しました。さらにジャーナリストの池上彰氏が「『人間のための経済学』を追究する学者・宇沢弘文」と題して、解説を加えています。
ノーベル経済学賞候補と言われた世界的な知の巨人・宇沢弘文氏が、温かい言葉でその思想を語った、珠玉のエッセイ集です。
いつだったかNHKの『欲望の資本主義』という番組でジョセフ・スティグリッツが「日本には非常に偉大な知性がいましたよね。私の先生の宇沢弘文氏です」と語った場面があった。その言葉は今も強烈な印象を私に残している。
本書には宇沢弘文氏の思想のエッセンスともいえる講演録や論攷、随筆、書評などがいくつか収められている。行きすぎた市場原理主義の問題、戦後レジームからの脱却を意図する日本への危惧、ベトナム戦争に象徴される60年代アメリカの病理、教育はどうあるべきか、地球環境をどう考えるか等々、近代社会の病竈を経済学者の視点で見つめ、人間が幸福に暮らせる社会を築くために経済学はどうあるべきかについて著者がどう考えるかを読み解くことができる。
私の理解は浅いものだろうし、ひょっとしたら少しも理解できていないのかもしれないが、私なりに宇沢氏が何を云わんとしているかをまとめてみると次のようなことになる。
経済という様々な生産、消費活動の中に存在する人の行動原理や法則を見いだし、それを説明するためには、それが理論である以上、そこから確かでないものをできるだけ排除する必要がある。確かでないものとは、たとえば人間の心のように理屈で説明しきれないもの、論理で割り切れないものである。金や富をできるだけ効率よく得ることを目的として経済学が行き着いた一つの答えが市場原理主義である。しかし今、行きすぎた市場原理主義の結果、世界に様々な問題が噴出しつつある。市場原理主義は決して人間を、社会を幸福にはしない。経済学が単に金を儲けるための学問なのであればそれでよいのかもしれない。しかしもし学問の目的が人々を幸せにすることにあるとすれば市場原理主義には欠陥があることになる。”There is no wealth, but life." ジョン・ラスキンのこの有名な言葉は経済学を学ぶ者が基本姿勢として持つべきものである。もし経済学者が時の政権に助言を与え、あるいは政権内部に入り込むならばなおさらである。確かに経済学の基本的な考え方はもともと、経済を人間の心から切り離して、経済減少の間に存在する鉄則や運動法則を求めるものであった。しかし宇沢氏は、そこになんとかして人間の心を持ち込みたいと悩んでいた。こうして宇沢氏が到達した理論が「社会的共通資本」という概念である。「社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する」(宇沢弘文『社会的共通資本』)つまり大気や森林、河川、土壌などの自然環境と、道路や交通機関、上下水道、電力・ガスなどの社会基盤、そして教育や医療、司法、金融資本などの制度資本から成り立つ。こうした社会的共通資本がうまく機能し安定的に維持されることで、一人ひとりの市民が人間的尊厳を保ち、人が人らしい生活を営むことができる社会を実現できる。経済学の役割、あるいは目的はそこにある。
以上、こうしてまとめてみると、拙文ゆえ本書の良さが伝わらないだろうが、私の浅薄な読み方をもってしても非常に示唆に富む逸話がそこかしこに出てくる刺激的な読書時間であった。かくなるうえは宇沢氏の他のご著書を読んで理解を深めていきたいが、その前にもう一度『欲望の資本主義』で現在資本主義が直面している危機的状況と問題点を俯瞰してみたい。放映された番組をベースに単行本化された書籍があるのでそれを読んでいこうと思う。