佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

宇和島風鯛めし

2021/07/14

 本日の厨房男子。魚と貝を中心に数品作ってみた。

【スズキのフリット

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【鰆の塩焼き】

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【ジェリースープ】

 ハマグリのコンソメ風味スープにプチトマト、長芋、胡瓜、オクラ、人参を入れてジュレにした。

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【兆久 純米吟醸 超辛なまざけ】

 和歌山県海南市の中野BC(株)の酒。旨味ののったアルコール度数19度の強い酒。超辛と銘打つだけあって、鋭いキレがあるきっぱりとした味わいが好もしい。

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宇和島風鯛めし】

 贅沢な〆ごはん。

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『一人称単数』(村上春樹:著/文藝春秋)

2021/07/14

『一人称単数』(村上春樹:著/文藝春秋)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 

6年ぶりに放たれる、8作からなる短篇小説集

「一人称単数」とは世界のひとかけらを切り取る「単眼」のことだ。しかしその切り口が増えていけばいくほど、「単眼」はきりなく絡み合った「複眼」となる。そしてそこでは、私はもう私でなくなり、僕はもう僕でなくなっていく。そして、そう、あなたはもうあなたでなくなっていく。そこで何が起こり、何が起こらなかったのか? 「一人称単数」の世界にようこそ。

 

収録作
「石のまくらに」「クリーム」「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」「『ヤクルト・スワローズ詩集』」「謝肉祭(Carnaval)」「品川猿の告白」(以上、「文學界」に随時発表)「一人称単数」(書き下ろし)

 

 

”一人称単数”とは何か? 足りない頭で少し考えてみた。単純明快に「I」、「私」、「僕」、「ぼく」、他にも言葉の表現はいくつかあるだろうが、要は村上春樹氏が常に使ってきた「僕」あるいは「ぼく」のことだろう。「常に使ってきた」と言ったが、厳密にはそうではない。私は村上作品をすべて読んだわけではないが『アフターダークは違っていたのではなかったか。それを読んだとき味わった違和感は「ほんとうにこれは村上作品なのか」と疑わせるほどのものだった。それほどに村上氏の小説は「僕」の物語りであって、私はそれを村上氏のスタイルだと思いこんでいる。ではなぜこの8篇の短編小説集を『一人称単数』と銘打ったのだろう。

 まず本書に収められた短編小説の最終8篇目のタイトルが「一人称単数」であって、この短編集発刊にあたって書き下ろされたものだということがある。つまりこの短編集の象徴的作品なのだという推測が成り立ちそうだ。そしてこの短篇は「私」によって語られる物語りである。前述したように村上氏の小説はたいてい「僕」または「ぼく」で語られる。本短編集においても他7篇はそうなっており、唯一8篇目「一人称単数」だけが「私」で語られている。

 「石のまくらに」→ 僕

「クリーム」→ ぼく

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」→ 僕

「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」→ 僕

「『ヤクルト・スワローズ詩集』」→ 僕

「謝肉祭(Carnaval)」→ 僕

品川猿の告白」→ 僕

「一人称単数」→ 私

 これはいったいなにを意味するのだろう。あるいは偶然に過ぎないのだろうか。他の7篇における「僕」あるいは「ぼく」はすべて過去の村上氏に重ね合わせることが出来る。ではこの短篇における「私」とはいったい誰なのか。それを考えるにあたって、この短編中のある一文に着目してみた。

 私のこれまでの人生には―――たいていの人の人生がおそらくそうであるように―――いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした(一方を選ぶ明確な理由が存在したときもあるが、そんなものは見当たらなかったことの方がむしろ多かったかもしれない。そしてまた常に私自身がその選択を行ってきたわけでもない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?

 もしかしたら8編目の「一人称単数」は、「僕」あるいは「ぼく」が存在する世界と、「私」として存在する世界とがパラレルに在って、二つのパラレルワールドが交錯してしまった物語りなのかもしれない。

 パラレルワールドといえば、ふと、ふたつ目の「クリーム」という短篇にあった言葉を思い起こした。「クリーム」は「ぼく」が18歳だったころの回想の物語りである。子どもの頃、一緒にピアノを習っていた一歳下の女の子から演奏会への招待状を受け取る。「ぼく」はその子と特に親しかったわけでもないし、もうずいぶん長い間顔も合わせていないので怪訝に思ったが好奇心に駆られて行ってみることにした。案内にあった日時にバスに乗って神戸の山の上のコンサート会場に行ってみたが、建物の入り口は閉ざされ誰もいない。「ぼく」はいったいどういうことか途方に暮れながら帰途につくのだが、その途中、公園のベンチに腰を下ろしていると、過呼吸の発作のようなものに襲われた。やがて発作が去ったとき、向かいに一人の老人が座っているのに気づく。その老人は「ぼく」に「中心がいくつもある、いや、ときとして無数にある円、そういう円を思いうかべることが出来るか」と問う。そうした不思議な話だ。案内された間違いのない日時に会場に行ったのに、なぜ門が閉ざされていたのか。彼女に担がれたのか、何らかの意地悪だったのだろうかとも考えられるが、仮にその世界とパラレルでコンサートが実際に開催される世界があって、何らかの時空の交錯で「ぼく」がその世界からコンサートが開かれないこの世界に来てしまったのではないか、そう考えるのは穿ち過ぎだろうか。とすると老人の問いに対する答えを私(これは私・佐々陽太朗のこと)は次のように考えてみるのだ。いくつもある中心を「一人称単数視点=僕・ぼく・私」と考えてみたらどうだろうかと。そしてそれを取り巻く円を一人称単数視点が見る世界だと考える。そうすると「中心がいくつもある、いや、ときとして無数にある円」というのはパラレルワールドのことではないかと。

 やはり無理があるかなあ。そもそも老人の発した問い自体が無理なのだ。円とその中心の数学的定義は「平面(2次元ユークリッド空間)上の、定点 O からの距離が等しい点の集合でできる曲線を円と呼ぶ。ここで現れる定点 O を円の中心と呼ぶ」なのだから。当然のこととして中心は一つに限られる。老人のこの数学的にあり得ない無理難題が、誰の発想なのか知らない。昔からある禅問答のようなものなのか、あるいは哲学的な考え、またあるいは村上氏の独創なのかは知らない。もしも村上氏の独創なのだとしたら、文学部はそうした発想をするのかとただただ驚くばかりである。同じ文化系であっても数学的手法を重視する経済学専攻の私(佐々陽太朗のこと。ややこしいなぁ。)には、こんなに非常識で魅力的な問いは逆立ちしても出てこない。

 いずれにしてもこの短編集『一人称単数』は「僕・ぼく・私=村上春樹」と強く思わせる自伝的な小説群という気がする。もちろん事実や経験を主体にした私小説ではない。基本的には虚構であって、あくまでその中にこの部分は村上氏の回想なのだなとピンとくるエピソードがちりばめられているということだ。

 文学は読み手にいろいろなことを考えさせる。優れた文学は特に。事実と虚構の交錯した世界を彷徨いあれこれ考えてみる。そのことが現実世界を変えることはおろか、ごく微細な影響をあたえることもないだろう。だとするとそんな行為は世迷い言とかわりはしない。何の意味も無いただのあそびといっても良いのかもしれない。でもただのあそびだからこそそれに惹かれるのだ。ひさしぶりに村上ワールドにあそんだ。

 

 

 

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鰆と柳蛸の刺身

2021/07/12

 昼過ぎまで福知山にいて本日の任務(娘夫婦の引っ越し準備手伝い)を終了。「柳町」で激うまの親子丼を食べた後、ついでだからとさらに北に向かって宮津で魚を買った。買ったのは鰆(大きさは鰆とサゴシの中間ぐらいだったからヤナギと呼んだ方が良いか)と柳蛸。どちらも新鮮なものが安く手に入った。今日の昼メシを福知山市柳町にある「柳町」という店で食べ、ヤナギと柳蛸を買う。どうやら今日はヤナギに縁があるらしい。

 家に帰っての夕餉はそれらを刺身にした。鰆(ヤナギ)は皮を炙った。どちらも柔らかい身が特徴。歯ごたえの良い刺身もうまいが、こうした柔らかいものも味わいがある。

 酒は「雪の茅舎 純米吟醸 山田穂 生酒」を飲み切り。

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福知山市『柳町』の「京地どりの親子丼」

2021/07/12

 娘夫婦の引っ越し手伝いに福知山に行く。

 午前中に作業をあらかた終え、後は業者を待つばかりになったので、早めの昼メシを食べに行く。娘が推す店『柳町』に向かう。11:30開店でその5分前に店に入ったが、すでに予約で埋まっており、少し待たなければならないという。平日月曜日で満席とは、なかなか人気のようだ。ちょうど予約客が遅れることになったと、開店と同時に入店を許される。

 店は古い町家を改装してテーブル席の食堂になっている。二階、三階、離れとかなり客席がある。他の部屋は見ていないがひょっとすると座敷もあるのかもしれない。なかなか風情のある建物だ。

 名物は「鴨すき」らしい。そういえば今年の正月に娘夫婦が家に来たとき、テイクアウトの「鴨すき」を持ってきたが、どうやらこの店のものだったらしい。なるほど。

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 娘からランチのお薦めは「親子丼」と聞いていたので「京地どりの親子丼」を注文する。飲み物はつれ合いが「箕面ビール NOT SO SWEET」。私はハンドルを握るのでノンアルコールビールでじっと我慢の大五郎。

 地どりは炙ってあるらしく芳ばしい。卵の半生状態が絶妙で、しかも黄身の味が濃厚かつ嫌みのない美味。なるほどの娘推しであったことよ。

 ちなみに「箕面ビール」は個性的な味であったらしい。飲めなかったことで「チッ」とやさぐれた。金にはきれいだが、酒には意地汚い私である。

 

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『つむじ風食堂と僕』(吉田篤弘:著/ちくまプリマー新書)

2021/07/11

『つむじ風食堂と僕』(吉田篤弘:著/ちくまプリマー新書)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

少し大人びた少年リツ君12歳。つむじ風食堂のテーブルで、町の大人たちがリツ君に「仕事」の話をする。リツ君は何を思い、何を考えるか…。人気シリーズ「月舟町三部作」番外篇。

 

 

 月舟町シリーズ番外編である。先日三部作の完結編『レインコートを着た犬』を読んだ流れで、こんなスピンアウトがあったのを知り買い求めた。

 主人公の少年は12歳。リツ君と呼ばれている。物語の舞台となっている月舟町から電車で一駅の桜川町に住んでいる。お父さんは桜川町で『トロワ』(フランス語で3のこと)というサンドイッチ店を営んでいる。このサンドイッチ店は月舟町3部作の2作目『それからはスープのことばかり考えて暮らした』に登場した店だ。リツ君も主役ではないが準主役級で登場していた。少年はしばしば電車に乗って月島町の『つむじ風食堂』に食事をしに行く。ひとりでポケットには10枚の百円玉を入れて。そのお金はお父さんから五百円、オーリィさんから三百円、マダムから二百円をカンパしてもらうのだ。オーリィさんというのは大里と言う人でサンドイッチ店『トロワ』でおいしいスープを作る従業員で『それからはスープのことばかり考えて暮らした』の主人公だった人、そしてマダムはオーリィさんの住むアパートの大家さんである。『それからはスープのことばかり考えて暮らした』で少年は小学四年生。当時、少年は確か恋愛について考えており、世の中のことをきちんと知ろうとする態度は既に大人であった。

 本作で少年はつむじ風食堂で出会う大人たちから職業について話を聴く。自分が将来どんな仕事をすればいいかを探しているのだ。大人たちの話を聴くうち、少年は世の中が役割分担と調和で成り立っていることに気づく。そして仕事をするうえで、あるいは生きていくうえで大切なことは継続であることを知る。そして物事は「ほどほど」が良いのだということも。小学四年生にして既に大人であった少年は、小学校六年生にしてもうただの大人ではない。この町に、いやこの世界に、この星に大切なものが何かを知る立派な大人になっている。

 遠い遠い昔のことを思い出して、私の少年時代はどうであっただろう。リツ少年のように、ただ一人で見知らぬ大人と話すことなどとても出来なかった。世の中について未だ何も知らず、自分が何者かも分からず、分かっているのはこのままでは自分には何も為し得ないだろうという事だけだった。ダメな奴だと見透かされるのが怖くて、大人とまともに向き合うことが出来なかった。未来の可能性について考えるより、恥ずかしさに身を縮めて、ひたすら内向きになっていたように思う。物事は「ほどほど」が良いのだと分かったのは人生の終盤にさしかかったつい最近のことである。考えてみれば、今日まで大過なく過ごしてこれたのは奇蹟に近い僥倖といえる。

 

 

映画『ウンベルト・D』(1952年イタリア/ヴィットリオ・デ・シーカ監督)

2021/07/11

ウンベルト・D』(1952年イタリア/ヴィットリオ・デ・シーカ監督)を観た。犬好きが観るべき映画としてSさんが教えて下さったもの。映画が制作された頃、私は未だ生まれもしていない。ヴィットリオ・デ・シーカ監督という名前、どこかで聞いたと思えば『ひまわり』の監督ではないか。そして1952年イタリアといえばヨーロッパ講和条約が締結されてから5年が経った時期。反ファジズム、ネオリアリズモの潮流か。なるほど、映画が素人くさいのは古い時代のせいだけではない。むしろそのようにリアリティを求めた結果なのか。

 このところ「犬」が重要な役割を演ずる小説をたくさん読んだ。そんな中に、孤独で死を覚悟した飼い主に寄り添う犬の話がいくつかあった。犬という生きものは人の孤独を癒やしてくれる。

 激しいインフレの中、少ない年金では部屋代も払えず生きていくすべもない年老いた主人公に世間は決して優しくない。古くからの知り合いも気づかぬふりを決め込む。冷たいといえばそうだが、皆、自分の家族を守るだけで精一杯なのだろう。教養もあり、現役のときにはそれなりの仕事をしたという矜持を持つ主人公は、知人に対して助けて欲しいという言葉をどうしても発することが出来ない。街頭で物乞いをしようかとも思ったが、どうしても出来ず、愛犬のフレイクにちんちんさせ、その首にシルクハットをかけてみたりもするがそれも見るに忍びない。せめてフレイクだけでも助けようと飼ってくれそうな人に有り金全部とともに預けようともしたが、それもかわいそうで出来なかった。本当に死のうとしたがフレイクのおかげでなんとか思いとどまる。

 映画はもう死ぬしかないところまで追いつめられた主人公に何の解決策も与えはしない。思いがけない幸運も、奇蹟も起こりはしない。それこそが現実(リアリズム)というものだろう。それでも犬が側にいる。それこそが救いだ。

 街角でフレイクが首にシルクハットをぶら下げてちんちんする姿におもわず涙がこぼれそうになった。

 

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『仁義なきキリスト教史』(架神恭介:著/筑摩書房)

2021/07/09

『仁義なきキリスト教史』(架神恭介:著/筑摩書房)を読んだ。

まずは出版社の紹介文を引く。

おやっさんおやっさん、なんでワシを見捨てたんじゃ~!」キリスト教2000年の歴史が、いま果てなきやくざ抗争史として蘇る!「あいつら、言うてみりゃ人の罪でメシ食うとるんで」エンタメで学べる画期的キリスト教史入門!


【目次】

第1章 やくざイエス

第2章 やくざイエスの死

第3章 初期やくざ教会

第4章 パウロ―極道の伝道師たち

第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影

第6章 実録・叙任権やくざ闘争

第7章 第四回十字軍

第8章 極道ルターの宗教改革

終章 インタビュー・ウィズ・やくざ

 

 

 巷間に迷信は尽きるとも、信仰に争いの種は尽きまじ。いやはや、学校で世界史、日本史を習って気づいていたことではあるけれど、改めてキリスト教その他の血塗られた歴史に唖然とし、人間の浅ましさ、残忍さ、欲深さに天を仰ぎ嘆息した。なにもキリスト教に限ったことではない。他の宗教宗派も似たり寄ったりである。本書はあくまでも小説であって学術的研究書ではない。史実や聖書に書かれていることがベースにはなっているようだが、多少のフィクションは入っている。というより、そもそもおおかたの宗教において実際にあったことと言い伝えられていることの何割が事実なのだろうとも思う。

 本書はキリスト教2000年の歴史を彼の深作欣二監督の名作映画『仁義なき戦い』風にコテコテの広島弁を使った熱いドラマに仕立て上げている。罰当たりなことかもしれないが、これがピタリと嵌まっており面白い。同じ唯一神ヤハウェを崇めるキリスト教ユダヤ教イスラム教同士がいがみ合い、はたまた同じキリスト教であっても宗派によって争いがあり、時にはそれらが流血の抗争となり、さらに大事になれば戦争にまで発展してしまったという歴史。それをやくざの血で血を洗う抗争劇になぞらえることで、妙に臨場感とおもしろみがグッと増した物語となっている。どのようになぞらえるかというと、「神=ヤハウェ大親分」「教会=組」「イエス=組長」という大胆かつ的確な表現となっており、たとえばイエスにとって「神ヤハウェ」は「大親分」であり、呼び方は親しみと尊敬を込めて「おやっさん」となる。イエスが十字架にかけられて叫んだと伝わる言葉、「Eli, Eli, Lema Sabachthan(ヘブライ語)→我が神よ、我が神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや(日本語訳)」が本書では「おやっさんおやっさん、なんでワシを見捨てたんじゃ!(広島弁訳)」となる。また「洗礼」といった宗教用語は「盃を交わす」といった極道用語に置き換えられる。こうしたことで時間的にも距離的にも遠い世界のことと感じられるキリスト教史が血の通った人間くさいドラマと感じられるのだ。このびっくり仰天の発想とテクニックに私は惜しみない讃辞を贈るものである。

 キリスト教の歴史が勢力拡大を意図した抗争の歴史であり、宗派拡大=信徒獲得=シノギ(収入あるいはそれを得るための手段)だという明白な事実を踏まえれば、よくぞやってくれたと拍手を贈りたい。宗教というものが上納金を集めるビジネスモデルであるという側面とやくざのシノギとの類似性に気づいた架神恭介氏の慧眼、流石である。先日、氏の『よいこの君主論』を読んでただ者ではないと思っていたが、本書を読んでその意をさらに強くした。まれに見る奇才であろう。

 こうしてみると、やくざの世界と宗教の世界との親和性は意外と高いと気づかされる。本書の一部を以下に引いてみるが、これを読むとおもわずニンマリしてしまう。

 

「イエス言うんはあいつじゃあ」

 やくざたちの先頭に立ち、イエスを指さしている貧相な男のあの姿は・・・・・・おお、イスカリオテのユダ

「ユダ、おどれがチンコロしおったんか!」

 途端にペドロはドスを引き抜くと、ユダに向かって躍りかかり凶刃を振るった。ユダはヒィと叫んで身を避けたが、すると後ろにいたやくざ者の右耳が削ぎ落とされて、大地に鮮血が散り、闇夜に悲鳴が轟いた。なおもユダを狙わんとドスを振りかざしたペトロであったが、これをイエスが背後から抱き止めた。

「やめえ、ペドロ!」

「じゃ、じゃ言うて、兄貴!」

「これも、おやっさんの考えのうちじゃけえ・・・・・・」

                      (本書P61~P62)

  推定A.D.30年、ユダがイエスを裏切った場面である。これは映画『仁義なき戦い』で兄弟分を警察に売られたときの「サツに_チンコロしたんはおどれらか!」と叫んだ名台詞にダブる。いいねぇ。

 もうひとつ、こんな場面もある。推定A.D.35年、ヘレニストのキリスト教徒がエルサレムから追放されたところはこんな風だ。

(ペトロ)「おう、おどれら今すぐ旅に出え! 殴り込みじゃ、やくざどもがカタギを煽ってぎょうさん殴り込みにきよるど! おどれら、はよ逃げえ、逃げえ!」

 ヘレニストやくざたちはこの報せに目を剥いて驚いたが、七人のヘレニスト幹部の一人、フィリッポスが片言のアラム語で必死に抗弁した。

「なにを言ようるんじゃ、おやじ! そぎゃあこと言うておやじはどないする気じゃい。危ないんはわしらもおやじも同じじゃろうが!」

「わしらはここに残るわい・・・・・・。出入りじゃ言うて、極道が一家揃って家を空けて逃げ出したら、人の笑いもんになろうが。エルサレムのシマぁ守るためにも、わしらは残らにゃいけんのじゃ!」

「おやじィ、水くさいこと言わんといてつかぁさい! おやじが残る言うんじゃったらわしらも残るけん。のう、みんな、死ぬ時は一蓮托生じゃ、のう!」

 おうよ、おうともさ、と他のヘレにストたちも呼応する。だが、ペトロは断固として叫んだ!

「こん馬鹿たれどもが! おどれら、親の気持ちも分からんのかい!」

 ペトロは両目からぼろぼろと涙を流し、口からは泡を噴き出しながら言った。

「どこの世界にのう・・・・・・我が身惜しさに子供を盾にする親がおるんじゃ! ・・・・・・ええか、よう聞けえ。万一じゃ、わしらがあの腐り外道どもに皆殺しにされてものう。それでもな、おどれらがの、他の町に逃げてくれとったら、ナザレ組は生き続けるんじゃ。たとえこの町のシマを失ってものう、お前らのような、ようできた子がおればの、いくらでも建て直せるじゃろうが、のう。おどれらはの、わしらの、自慢の子じゃけん・・・・・・のう・・・・・・」

「お、おやじ・・・・・・」

                       (本書P93~P94)

 

 

 本書を読んでイエス、ペトロ、ユダ、ヤコブバルナバパウロローマ教皇グレゴリオス七世、神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世、ローマ教皇パスカリス二世、神聖ローマ皇帝ハインリヒ五世、ルターなどキリスト教史上重要な人物の振るまいを見ることで、ある程度歴史のおさらいができた。世界史の教科書ではまったく心に響かなかった歴史が、人間ドラマとして腑に落ちていく経験は刺激的なものだった。カノッサの屈辱、第四回十字軍、ルターの宗教改革のドラマは特に面白かった。

 

 宗教が権力と結びつく、あるいは逆に権力が宗教と結びつく。つまりは宗教の権力利用、権力の宗教利用とそれに付随する利権によって、お互いが力の拡大を図ってきたという歴史と純粋な(?)信仰との葛藤は語るに値する物語だ。