佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

「煮干しじゃが」「干し椎茸、木耳、菊菜のとろみ煮」で「王祿 出雲麹屋 にごり」をやる

2023/02/01

 本日の厨房男子。

 夕餉に「煮干しじゃが」「干し椎茸、木耳、菊菜のとろみ煮」を作った。ウチは「肉じゃが」より「煮干しじゃが」をよく作る。これがなかなか酒の肴に良い。酒は「王祿 出雲麹屋 にごり」。やっぱり「王祿」はうまい。

 

『朝が来るまでそばにいる』(彩瀬まる:著/新潮社)

2023/01/31

『朝が来るまでそばにいる』(彩瀬まる:著/新潮社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

弱ったとき、逃げたいとき、見たくないものが見えてくる。高校の廊下にうずくまる、かつての少女だったものの影。疲れた女の部屋でせっせと料理を作る黒い鳥。母が亡くなってから毎夜現れる白い手……。何気ない暮らしの中に不意に現れる、この世の外から来たものたち。傷ついた人間を甘く優しくゆさぶり、心の闇を広げていく――新鋭が描く、幻想から再生へと続く連作短編集。

 

 

 嫌なものを読んでしまった。本書に収められた最初の短編「君の心臓をいだくまで」読み始めたときに感じた偽らざる感想である。なにかおぞましい手に身体が絡め捕られているような感覚。そこから逃げたいのにそのおぞましいものの正体が何かを見きわめたくてじっとしている。そしてさらに絡め捕られてしまう。そんな感覚である。さらにその感じは次の「ゆびのいと」でも変わらない。だのに読むのを止められない。おぞましさから眼をそむけられない。やがて気味の悪い手に捕まって、どこか訳のわからないところに連れ込まれてしまう。そんな感覚の短編集だった。

 それなのに収められた六編を最後まで読ませてしまう。これは彩瀬まる氏の筆力の成せる技なのか。はたまた彼女の描く世界がとんでもなく異次元のものなのか。その答えを見つけたい気はする。彩瀬氏の作品をもう一つ読んでみようか。いややはりやめておいた方が良いか。迷ってしまう。とりあえずしばらくはじっとしている。そう決めた。

 

『孤独の価値』(森博嗣:著/幻冬舎新書)

2023/01/30

『孤独の価値』(森博嗣:著/幻冬舎新書)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

  人は、なぜ孤独を怖れるのか。多くは孤独が寂しいからだと言う。だが、寂しさはどんな嫌なことを貴方にもたらすだろう。それはマスコミがつくったステレオタイプの虚構の寂しさを、悪だと思わされているだけではないのか。現代人は“絆”を売り物にする商売にのせられ過剰に他者とつながりたがって“絆の肥満”状態だ。孤独とは、他者からの無視でも社会の拒絶でもない。社会と共生しながら、自分の思い描いた「自由」を生きることである。人間を苛む得体の知れない孤独感を、少しでも和らげるための画期的な人生論。
(目次)

第1章 何故孤独は寂しいのか(孤独とは何か孤独を感じる条件 ほか)

第2章 何故寂しいといけないのか(寂しさという感覚孤独を怖れる理由 ほか)

第3章 人間には孤独が必要である(個人でも生きやすくなった僕はほとんど人に会わない ほか)

第4章 孤独から生まれる美意識(人間の仕事の変遷わびさびの文化 ほか)第5章 孤独を受け入れる方法(詩を作ってみよう逃げ道を探す ほか)

 

 

 森氏は、現代人は「絆の肥満」になっているという。あまりにも他者と繋がりたがっているというのだ。繋がっていることで「楽しい」と感じることと、孤独でいることで「寂しい」と感じることはブランコの揺れのようなもので、前に振れる(楽しい)があれば必ず後ろに振れる(寂しい)がある。また前(楽しい)への振幅が大きければ大きいほど後ろ(寂しい)への振り幅も大きくなる。他人と繋がっていたい、繋がっていなければ不幸だという思いが大きければ大きいほど、つまり「絆の肥満」に陥っていればいるほど、孤独感(寂しさ)が大きくなる道理だ。こうした強迫観念がTVなどマスコミが垂れ流すステレオタイプの虚構によって植え付けられているのが現代人だというのだ。

「TVを視るとバカになる」。これは森氏が本書で言いたかったことのひとつであろう。これはけっこう重要なポイントである。もちろん森氏はそんな乱暴な言い方はなさらない。ひょっとして「ぼくはそんなこと言っていない」とお叱りを受けるかもしれない。でも私は本書をそう読んだ。

「努力を続ければ、いつかは勝てる」「自分を信じていれば、夢は実現する」といった子ども向けのきれい事、「やりがいのある仕事をして、仕事を楽しめ」といった大人向けのきれい事、たしかに運良くそうなった人もいるだろうが、そうはならない人も多々ある。しかし感動を売り物にするマスコミがこうした嘘をばらまくことで人々に強迫観念を植え付けている。

 マスコミの垂れ流す浅薄な価値観(たとえば孤独を単純に不幸・寂しさと結びつけて忌み嫌うステレオタイプの考え)から解き放たれ、孤独の良い面・すばらしさに気づくことで人は自由になり、小説や詩など文芸あるいは芸術の分野でより高い美意識を持つに至る。創作、研究、その他生物として無駄な行為に勤しむこと、それこそが人間だけが到達できる精神の高みであり、まぎれもなく豊かさなのだ。そういうことかな。

 私は先月六十三歳になった。六十歳の半ばで会社の仕事を辞し二年半が過ぎた。全くの孤独というわけではないが、毎日人に会わずに済むようになった。いついつまでに達成しなければならないという責任からも解放された。仕事が嫌いだったわけではない。しかし辞めてみてわかったのは、自分がものすごい重圧に耐えていたということ。そして夥しい時間が仕事に収奪されていたこと。端的に言って「金より時間を選んだ」ということなのだが、本書を読んでそれがあながち間違いではなかったと思える。

 最後に本書で心にとどめておきたい言葉を記しておこう。

 もし、自分の思いどおりになっていない、と考える人がいるとすれば、それは、運命を超えたものを望んでいるからであり、そもそも選択肢にない夢を追っているということになるだろう。  (本書P6「まえがき」より)

 

 人生には金もさほどいらないし、またそれほど仲間というものも必要ない。一人で暮らしていける。しかし、もし自分の人生を有意義にしたいのならば、それには唯一必要なものがある。それが自分の思想なのである。

            (本書P10「まえがき」より)

 

 僕が子供の頃には、子供が嬉しくてはしゃぐと叱られたものである。泣いても当然叱られた。静かにしていなさい、と言われるのである。僕の両親がそんなふうだったから、僕も子供たちを同じように指導した。嬉しくてもはしゃぐな、悲しくても泣くな、というようにである。それが、「上品」な人間だと考えていたし、もちろん今でもそう思っている。

・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・

 十代の後半にもなれば、人前で涙を見せるなんてことは、男のすることではない、という文化が、かつての日本にはたしかに存在したのである。今の若者はきっと知らないだろう。たとえば、スポーツなどに負けたら、涙を見せる方が好印象だと思っている人の方が多いのではないか。僕は、少なくともそうは思わない。動物ではなく、人間なのだ。感情をコントロールすることの方が「美しい」と考えている。

          (本書P88~P89「何故寂しいといけないのか」より)

 

 

「ワカサギの南蛮漬け」「豚、ニラ、塩白菜炒め」

2023/01/29

 本日の厨房男子。

 夕餉に「ワカサギの南蛮漬け」「豚、ニラ、塩白菜炒め」を作った。南蛮漬けは二日間漬けたので骨まで柔らかく、酢もやや落ち着いてまろやかになっています。やはりワカサギはこの時季に食べたい食材ですね。

 酒は「月桂冠 本醸造 金箔入り」。正月に娘夫婦が持ってきてくれたものです。

 

 

『女は太もも エッセイベストセレクション 1 』(田辺聖子:著/文春文庫)

2023/01/27

『女は太もも エッセイベストセレクション 1 』(田辺聖子:著/文春文庫)を読んだ。

 田辺聖子氏の「エッセイベストセレクション」については「2」を先に読んでいる。昨年8月10日のことである。いつだったか、呑み友のどなたかにいただいたのだ。ひょっとしたら貸して下さったのかもしれないが、誰からどのように渡されたのかよく覚えていないのだ。飲み会の帰りに渡され(たような気がする)、そのままになっていたものだ。読後レビューについてはこの記事の一番下にリンクを張っておく。

 さて、出版社の紹介文を引く。

オトコの見当はずれ、オンナの欲望!
田辺聖子さんと言えば、大人女子の心を鷲摑みにする甘やかな恋愛小説や、古典教養の世界に軽やかに誘う名随筆の数々…だけではないのです。過去の週刊誌コラムから選りすぐったこの一冊には、男女の性の話つまり「下ネタ」が満載!  目次には「女の性欲」「四十八手」「名器・名刀」 (まだまだあります) ……女(男)って、こ、こんなこと考えてるのか! と愕然としつつも、深いアフォリズムと成熟した大人の智恵が深く心に響いてためになる、必読の極上エッセイ集です。

 

 

 

 下ネタです。ほぼ全編、下ネタです。なのに不思議と下品ではない。なぜか。筆致に軽さがあるからである。ユーモアがあり、逆にイヤミがないからである。おおらかさがあるからである。教養があるからである。カモカのおっちゃんとの丁々発止のやりとりも、どこか余裕がありお互い様と許し合う様子があるのだ。昨今のフェミニストジェンダーフリーを声高に叫ぶ輩とは人間の幅が違う。格も違う。男と女の違いを認め、どこまでも理解し合えないところがあることを承知しながらも、違うからこそ愛おしみ、許すのだ。違いがあることを認めるということは、お互いに相手を追いつめないという態度に繋がる。そうした態度こそ知性であり、教養であろう。

 

jhon-wells.hatenablog.com