佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『わたしたちに手を出すな』(ウィリアム・ボイル:著/鈴木美朋:訳/文春文庫)

2022/09/21

『わたしたちに手を出すな』(ウィリアム・ボイル:著/鈴木美朋:訳/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

作家・王谷晶さん(『ババヤガの夜』ほか)感嘆!

まさにシスターフッドどまんなか。
これこれ、こういうのが読みたかった!
という感動に胸躍らせながらページをめくった。
――王谷晶

ハンマーを持つ殺し屋から逃げる3人の女。
米英仏のミステリー界が推す新人が放った逃走と感動のシスターフッド・サスペンス。


私、人を殺してしまった――
言い寄ってきた老人を灰皿で殴り倒した未亡人リナは、倒れ伏した相手を前に愕然とした。マフィアの大物だった夫を亡くした彼女には、頼れるのは娘しかいなかった。だが娘の家へ駆けこんだリナを待ち受けていたのは、ハンマーを持つ殺し屋の襲撃。娘の愛人がマフィアの取引を襲撃し、金を強奪したというのだ!隣家に住む元ポルノ女優ウルフスタインと高校生の孫娘を道連れに、リナの逃避行が始まった――
気鋭のミステリー作家が女たちの絆を描く傑作。

「友情って最高のロマンス」 という言葉が、 この物語のテーマの一つなのかもしれない。(略)ドライでなおかつ熱いところもある女の友情は、 まさにシスターフッドどまんなかという感じ。 (略) とにかく女がかっこいいのだ。ハードボイルドが男の専売特許でないことに世の中が気付き始めて久しいが、 美女スパイでも私立探偵でもない街のそのへんに居る女同士のハードボイルドが一番しびれる。
これこれ、 こういうのが読みたかった! ――王谷晶(本書解説より)

 

 

 

 ウィルアム・ボイル氏は初読み。その名もどんな経歴の方かも何も知らないまま読んだ。主人公たちが女性ということもあって、作者も女性だと勘違いしたまま読んでいた。名前からして男に違いないのに迂闊であった。しかしほんとうに男が書いたのかと疑うほど違和感が無かった。

 主人公のリナは九年まえに夫を亡くした六十歳の独り身。亡夫はマフィアの一員だったが良くできた男で、リナとの生活にまったく稼業を影響させなかった。だからリナは「極道の妻」といった気っ風などなく、ごく普通に生きている未亡人である。ある日、近所に住む老人エンジオがいやらしく口説いてきた。やめなさいと警告したがバイアグラを飲んだエンジオは止まらない。たまらずリナは灰皿をいけ好かないエロじじいの頭に振り下ろしてしまった。こんなふうに物語ははじまり、リナがエンジオの愛車(シボレー・インパラ)に乗って逃亡し、そこから事態はめまぐるしく動き出す。それもコントロールできない悪い方向に。果たしてこの物語の行方はどうなるのか、バッドエンドなのだろうかという不安がふと頭をもたげるが、いやハッピーエンドに違いないという確信めいたものがたちまちそれを打ち消す。なぜならこの物語で窮地に陥る女ども(リナ、リナの孫娘ルシア、逃亡の途中で知り合った元ポルノ女優で詐欺師のウルフスタイン、ウルフスタインの親友モー)がクソ逞しいからだ。そして逃亡しながら深まる彼女たちのつながりは理屈ではない強さを持つ。カッコイイじゃないか。こいつらはぜったいくたばらねぇだろう。そんなふうに思える愉快な小説だ。

 私が好きなところは主人公のリナ、そしてリナと馬が合い一緒に逃げることになるウルフスタインの価値観だ。たとえばリナは「ものごとには順序があり、神さまやみんなの目に正しいと映ることと映らないことがある」と考えているような女性だ。またウルフスタインは七〇年代から八〇年代、エイズが流行る前のころを懐かしむ。「その頃は今と全然違う時代で、男はみんな毛深いままで、女はおっぱいに詰め物なんかしてなかった」と。もう年老いてしまったババアの価値観じゃないかといえばそれまでだが、そうしたところに大切なものがあるという感覚には共感できる。なんのことはない、私もまたジジイにすぎないのだが。

 好きなところはもうひとつある。それは今の時代にすっかりなくなってしまったある種の「寛容」である。今は亡きリナの夫はマフィアであったが、堅気の人も含め多くの人が立派な奴だったという男で、そしてリナはその妻である。ウルフスタインは元ポルノ女優で、女優をやめたあとは歳をとった独り身の男をたらしこみ金をだまし取っていた過去がある。けっして褒められたもんじゃない。しかしこの小説はそんな彼女らに活躍の場をあたえる寛容さがある。そう、私は何でもかんでも正義を振りかざす今の風潮に嫌気がさしている。息苦しくてたまらないのである。そして今の風潮の一番イヤなのは、そんな風に正義を振りかざす奴らも皆、実はそんなに清廉潔白じゃないところ。完璧な人間など存在しない。皆、強くもなければ、人に言えない恥ずかしいところを持っている。そんな自らを省みず、人の悪いところを指摘し徹底的に攻撃し追いつめようとする(立⚫⚫⚫党議員がよくやるような)行為の嘘くささが大嫌いなのだ。自分を省みて自分の中に弱さや卑しさ、薄汚い部分があると知る人間は人に寛容になれるものだろう。そうした寛容が作者ウィリアム・ボイル氏にはあるのではないか。

 最後に本書の解説で王谷晶氏がさかんに本書のハードボイルド・テイストを褒めておられる。私も同感である。一カ所だけお気に入りのセンテンスを引いておく。

 外に出ると、消火栓のそばにとめておいた白い八二年型キャデラック・エルドラド・ハードトップ・クーペへ歩いていき、運転席に乗ってイグニッションにキーを差し、エンジンをかけてアイドリングさせる。グローヴボックスからとっておきのディ・ノビリ・トスカーニの葉巻を取り出す。車のライターで火をつけ、窓をあけて煙を吐き出し、ラジオをつけてよさそうな局を探した。ヘンドリックス。スプリングスティーン。イエスを流している一〇四・三に決める。クラブを見張る。

                         (本書P117より引用)

 いいねぇ。シビれます。ジジイの趣味だと笑わば笑え。 

『ママがやった』(井上荒野:著/文藝春秋)

2022/09/09

『ママがやった』(井上荒野:著/文藝春秋)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

或る家族の半世紀を描いた、愛をめぐる8つの物語。

小料理屋の女主人・百々子(79歳)と、若いころから女が切れない奇妙な魅力をもった夫・拓人(72歳)。半世紀連れ添った男を、ある日水で濡らしたタオルを顔にかぶせ、その上に枕をおき全体重で押さえ、殺した。
急きょ集まった三人の子供たちに向かって「あんたたち、お昼食べていくんでしょう」と、百々子は米をとぎはじめる。
「ママはいいわよ。べつに、刑務所に入ったって」警察に連絡するしないでもめている三人に、のんびりした口調で話す。
死体処理の相談をする姉たちは弟・創太にブルーシートを買ってくるよう命じるが、創太の足は父親との思い出の店・小鳥屋へ向いていた――

表題作ほか、「五、六回」「ミック・ジャガーごっこ」「コネティカットの分譲霊園」「恥」「はやくうちに帰りたい」「自転車」「縦覧謝絶」の全八篇。

 

 小料理屋の女主人・百々子(79歳)が夫・拓人(72歳)を殺してしまったところから物語は始まる。水で濡らしたタオルを顔にかぶせ、その上に枕をおき全体重で押さえて殺したのだ。「なんで?」という子どもたちからの問いかけに対して百々子は「そのやり方をテレビドラマで観たのだ」といって理由らしきものは語らない。なぜなんだ? とあれこれ話し合う子どもたちに対し、百々子は「あんたたち、お昼食べていくんでしょう?」と支度をはじめる。夫殺しがあった後だというのに、この家族にはなにか緊迫感のようなものが欠けている。それは警察に届けるかどうかをめぐっての次のようなやりとりにも現れている。

「飯食い終わったら警察に電話しないと」

「警察? なんでよ?」

「なんでって――電話しないつもりなのかよ」

「警察に知らせたら、ママは捕まっちゃうのよ」

 時子が小さい子に教える口調で言い、

「まま、来年には八十歳になるのよ。刑務所に入れたいの?」

 文子が涙ぐみながら咎めた。・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・

「ママはいいわよべつに、刑務所に入ったって」

 母親がのんびりした声で割って入った」

「どうせもうそんなに長くは生きないんだもの。警察に知らせたほうが、あんたたちだって簡単でしょ。そうしなさい」

「だめよ、ママ」

「ママ、刑務所に入ったら三食刑務所のごはんなのよ。おいしいものなんか食べられないのよ」

 姉ふたりが口々に言うと、母親は「そうねえ」と思案する顔になった。

 

 なんだこれは。ひょっとしてユーモア小説なのか? と思ったほどぶっ飛んでいる。こんな場面が描けるなんて、井上荒野氏はただ者ではない。物語のはじまりの数ページを読んだだけでこの小説を読んだ価値はあろうというものだ。

 父・拓人は若い頃から女が切れない。仕事もせずに次々と女を作ってばかりいるダメ夫、ダメ父である。72歳の今も不倫相手はおり、それを家族にはばかる様子もない。百々子も子どもたちもそれをとがめたりすることはなく、それはもう家族のあたりまえになっているかのようだ。

 いったいこの家族は何なんだ? 読者の頭にそうした疑問がもたげる。表題作「ママがやった」でそんな疑問を残したまま、以下、「五、六回」「ミック・ジャガーごっこ」「コネティカットの分譲霊園」「恥」「はやくうちに帰りたい」「自転車」「縦覧謝絶」と家族と拓人の愛人それぞれの視点で描く連作物語で断片的ではあっても家族の実像が見えてくるという構成。

 小説の中で母は父を殺した理由をとうとう口にしなかった。半世紀もの間、ろくに仕事をせず、女の切れなかった父と平然と暮らしてきた母。それなのに何故、父を殺してしまったのだろう。しかしそれは第七編「自転車」の中で察しがつく。いったいそれは何だったのか。それをここで語ることはできない。

 この物語には修羅場がない。妻が夫を殺してしまうほどの何かが家族の中にあったにもかかわらずそれがないのだ。普通の人間にはそれがなんとも奇妙だ。しかしひょっとしたらそれは、これを書いたのが井上荒野氏だからかもしれない。井上荒野氏はかの井上光晴氏の娘である。荒野氏が雑誌か何かのインタビューに答えていらっしゃるのを読んだことがある。荒野氏が五歳から十二歳までの七年間、父・光晴氏は瀬戸内寂聴氏と不倫関係にあり、その後寂聴氏は出家された。出家された後も寂聴氏は井上家を訪れ、荒野氏の母とはとても仲が良かったのだとか。光晴氏は寂聴氏と付き合っていたころも、さらに別の女があったようで、ぶらっと出かけて泊まってくるようなことは井上家の日常であったらしい。そして両親は仲が良かった。そうした家庭に生まれ育った荒野氏であるからこそ、この小説は生まれたのかもしれない。もちろん私の勝手な想像だが。しかしそうした想像がこの小説をさらに楽しく読ませてくれる。

 

 

 

『羽州ぼろ鳶組 幕間 恋大蛇(こいおろち)』(今村翔吾:著/祥伝社文庫)

2022/09/08

羽州ぼろ鳶組 幕間 恋大蛇(こいおろち)』(今村翔吾:著/祥伝社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

救えなかった命―猛火に包まれた幼子の悲鳴が聞こえる。炎への恐怖に萎む心と躰を麻痺させるため、今日も“蟒蛇”野条弾馬は、酒を呷って火事場に臨む。京都常火消、淀藩火消組頭取に己を取り立ててくれた心優しき主君が逝った。「帝を、京を、そこに住まう人々を救え」今際の言葉を胸に刻んだ弾馬は…(「恋大蛇」)。表題作の他二編を収録、シリーズ初の外伝的短編集。

 

 

 

 待ちに待った羽州ぼろ鳶組シリーズの最新刊である。先月は同じく今村氏の『八本目の槍』(新潮文庫)を読み、石田三成を正当に評価して描いていただいたことがまことにうれしく、また賤ヶ岳七本槍の面々からみた三成の姿の格好良さに打ち震えた。それはそれとして、私にとって今村翔吾氏といえばやはり本シリーズが一番。最新刊を待ちかねていた。

 本作はスピンアウト的な三つの短編で、主人公はぼろ鳶組の連中ではなく、ライバルとする他の火消しが主人公となっている。第一話「流転蜂」、第二話「恋大蛇」が良い。人として、火消しとしての心意気の良さ、そして恋愛糖度の高さが読者を存分に楽しませてくれる。題名に「幕間」とあるからには次作からはいよいよセカンドシリーズの開幕となるのだろう。今村さん、本シリーズ以外にも多くの力作を上梓され、直木賞を受賞された今、超ご多忙でござろうが、なにとぞぼろ鳶組の心躍る活躍を描き続けてくだされ。お願いいたしますぞ。

『ハリー・オーガスト、15回目の人生』(クレア・ノース:著/雨海弘美:訳)

2022/09/07

『ハリー・オーガスト、15回目の人生』(クレア・ノース:著/雨海弘美:訳)を読んだ。

 久々の時空を超えることをテーマにしたSF。もともとそうした小説が好きであり、そのうえ友人から薦められたこともあってワクワクしながら読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

一回きりの人生では、語りきれない物語――。
全英20万部突破の“リプレイ"SF大作が待望の日本上陸!

1919年に生まれたハリー・オーガストは、死んでも誕生時と同じ状況で、記憶を残したまま生まれ変わる体質を持っていた。
彼は3回目の人生でその体質を受け入れ、11回目の人生で自分が世界の終わりをとめなければいけないことを知る。
終焉の原因は、同じ体質を持つ科学者ヴィンセント・ランキス。彼はある野望をもって、記憶の蓄積を利用し、科学技術の進化を加速させていた。
激動の20世紀、時を超えた対決の行方は?

解説・大森望

 

 

 

 出版社の紹介に「“リプレイ"SF大作」とあるように本書で扱う時空移動はタイムループです。題名にある「15回目の人生」にそのことは端的に表れています。

「もしも人生をやり直せたら」という仮定は誰もが一度は夢みるものではないか。それも過去の人生の記憶を残したままやり直せるなら、これほど魅力的でワクワクする人生はないだろう。過去の失敗をやり直せるのである。世の中で起こることを予め知っているのである。戦争や事故の経緯と結果を知っている。サッカーの勝敗の結果、競馬の順位や、株価の推移だって知っているのだ。安全に、しかも裕福に生きていくすべは手中にある。過去の記憶の積み重ねは膨大な知識の獲得と深化を可能にする。やり直し(生まれ変わり)が一度だけでなく、題名からして15回もということであれば、これはもうやりたい放題ではないか。夢を叶えてめでたしめでたしかと思いきや、なんとハリー・オーガストの人生は苦難の連続であった。

【ここからはネタバレ注意】

 上に引いた出版社の紹介文にあるように、ハリー・オーガスト(1919年生まれ)は、死んでも誕生時と同じ状況で、記憶を残したまま生まれ変わる体質を持つ。本書はそんなハリーの繰り返される人生をハリーの語りによって読者が追体験するかたちで物語られる。「もしも生まれ変わることができたなら」というのは誰もが一度は夢みる願望だろう。「過去の人生における経験と教訓を生かし次の人生をやり直す」という設定が、読者が潜在的に持つ願望を刺激し、弥が上にも読者を惹き付ける。そのうえ本作がすごいのは生まれ変わるのが可能な人間が一人だけではないという設定だ。この設定がストーリー展開に驚くべき拡がりを持たせている。本作において記憶を持って生まれ変わる能力を有する人間は「カーラチャクラ」と呼ばれる。彼らは有史以前から存在しており、同時代に生きる者は世界を見渡せば何十人何百人と存在している。カーラチャクラは、一般にそうと知られないよう密やかに暮らしつつ、同じ能力を持つ者同士「クロノス・クラブ」という結社を組織し、後からカーラチャクラとして生まれてくる者に便宜を図ることで生きやすくする。もう一つクロノス・クラブの意図するところは、カーラチャクラがその恵まれた資質によりいたずらに未来の改変をしないこと。カーラチャクラはタイムトラベラーではない。なぜ未来が改変されようとしていることが、現世に生きているカーラチャクラにわかるのか。クレア・ノース氏はここに驚くべきからくりを作り上げた。カーラチャクラが過去から未来、未来から過去へ伝言ゲームをするのである。過去から未来への情報を伝えることは比較的容易だ。その手段さえ未来の人間に伝わるようにすれば良い。しかし未来から過去への情報はどうだろう。タイムトラベルなしにそれをするのは一見不可能に見える。しかし、やり方はあったのだ。生まれ変わって間のないカーラチャクラ(本作ではカーラチャクラは4才頃には前世の記憶がすべて蘇るということになっている)からもうすぐ死を迎えようとする老いたカーラチャクラに伝言するという方法で1世代ごとに未来の情報を過去に伝えていくことが可能になるのだ。このクロノス・クラブの存在、そして伝言ゲームを物語に組み込んだことで本作は緊迫した様相を呈し、読者をどっぷりと物語に引き込むのだ。このあたりにクレア・ノース氏のSF作家としての非凡さを感じる。

 ハリーは11回目の人生で世界が終わろうとしているというメッセージに接する。そしてその原因が同士ともいえるヴィンセントがやろうとしている歴史の改変であることを知るのである。ヴィンセントは自分と同じ体質を持ち、知能もずば抜けており、お互いに共感できる存在だが、その彼と15回目までの人生をかけて対決する。このストーリー展開(改変によって歴史が分岐し複数の未来が並行併存するのではなく、未来が置き換わってしまう)からして、本作はパラレルワールドとして読むのではなく、過去、現在、未来を一本の時間線として読むべきなのだろう。つまりヴィンセントによる歴史改変の結果、未来が書き換えられ世界の終わりが来る、逆にそれを阻止することで未来が救われるという設定は、世界が過去、現在、未来と一本の時間線で繋がっており、過去と現在の成り行きによって未来が完全に置き換わるということを前提としている。そうするとヴィンセントの歴史改変を阻止したとたんに未来が置き換わるというのか。ならばそもそも「世界が終わろうとしている」という未来からのメッセージ(このメッセージが過去に向かって発せられたのは確定した未来であるはずだが)もなくなってしまうのか。いやいややはり歴史が分岐したパラレルワールドがあって、本作では数ある併存世界のひとつを描いたに過ぎないということなのかもしれない。などと、処理能力の低い私の脳の中はぐちゃぐちゃでオーバーヒートしそうである。他の時間モノSFでは歴史が改変されてしまうことを阻止するために、未来からタイムトラベルしてきたタイムパトロールが取り締まって改変を阻止するといったことがあったり、あるいは時間宇宙が改変による矛盾を抱え込むことを許さず、宇宙が強制的にあるべき歴史に戻してしまうというものがある。あるいは改変した時点で宇宙が崩壊してしまうというものまである。本作中にもハリーの6回目の人生においてケンブリッジ大学の専任講師を務めていたハリーとその学生ヴィンセントの初めての邂逅場面で多元宇宙論について激しく議論を戦わせる場面がある。P85からP94にわたる緊迫した議論の場面は読み応えたっぷりだ。この邂逅から二人がお互いの能力を認め合い、同能力者としてのシンパシーを持ち、一時は協力して研究を行ったが、やがて袂を分かち対決するというストーリーはなかなか良い。お互い最高の知能を持つ者同士としてリスペクトし合い、かけがえのない同類としてのシンパシーを感じつつも方向性の違いのために争わなければならない運命が紡ぐ物語は、手に汗握る緊迫感と共に怒濤のいきおいで読者に迫ってくる。時間モノSFとしては、なかなかツッコミどころが多いかもしれないが、それがまた本作のおもしろみでもある。読書会の課題本にでもすれば議論百出間違いなし。その意味で本作は最高の時間モノSFの一つでありましょう。

 余談であるが、死んでも死んでも何度でも生まれ変わる、それも過去に生きたときのことをすべて記憶に残したままという人生を繰り返すのはどのような気分なのだろう。それはもう一度生まれ変わることを心から喜べるかどうか。それは生きた記憶が幸せだったか不幸だったかで違うのかもしれない。過去の生の経験から、生まれ変わりの人生はより良いものにしようとする。あるいは物事の真理を見極めようと努力してみる。そうして知識と経験とその記憶はどんどん積み重なっていく。そうしたことで回数を重ねた人生はどんどん豊かになり、人間性もまた深まるだろう。しかし問題は人間がそれほどまでの記憶に耐えられるかどうか。普通の人間は皆死んでゆき、生き返ることはない。その喪失感はけっして埋まることはない。過去にしてしまった過ち、人間が持つ禍々しい側面、世界のすべてが正しく調和し人びと全員が幸せに暮らすことなどあり得ないという現実、人間を知れば知るほどそうしたことは地獄の責め苦として己を悩ませるに違いない。けっして忘れられないことの責め苦は想像以上で、人はそれに耐えることができないのではないだろうか。そんなこともふと考えてしまう。

 ちなみに本書の原題は ”The First Fifteen Lives of Harry August" となっており、ハリーの「最初の」15回目の人生です。ということは16回目以降も、おそらくは何百回、何千回、何万回と繰り返されることが予測されます。何者かが過去の世界を大きく変えてしまって世界が終わってしまわないかぎりということですが・・・。それぞれの人生でハリーがどのように生きていくのか、あるいは記憶を持ったまま人生を繰り返すことに堪えきれず自分で記憶を消そうとするのか、あるいは何らかの方法で自らを生まれ変われなくしてしまうかも・・・と勝手な想像を巡らせたりします。でもとりあえず16回目の人生ではもう一度ジェニーとやり直させてあげたいものだ。そう4回目の人生の失敗を踏まえたうえでもう一度ジェニーと幸せに暮らさせてあげたい。ひょっとしてクレア・ノース氏は続編を書くだろうか。しかし「ハリーはジェニーと幸せに暮らしましたとさ」では小説にならないな。そういえば「成就した恋ほど語るに値しないものはない」とは彼の森見登美彦氏が『四畳半神話体系』に記した名言であった。奇しくもこの小説はパラレルワールドもの。また森見氏が劇作家・上田誠氏とコラボした小説と映画『四畳半タイムマシンブルース』は歴史改編SFものであったなぁ。

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『河岸忘日抄』(堀江敏幸:著/新潮社)

2022/08/29

『河岸忘日抄』(堀江敏幸:著/新潮社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

セーヌと思しき河に浮かぶ船を仮寓とする「彼」。陽あたりのいいリビング。本とレコードが几帳面に並ぶ樫の木の棚。訪ねる者はといえば、郵便を届けにきて珈琲をのんでゆく配達夫くらいだ。謎めいた大家を時に見舞いながら、ブッツァーティチェーホフツェランなどを再読し、ショスタコーヴィチほか古いLPに耳を澄ます日々。ためらいつづけることの意味をさぐる長篇。

 

 

 

 堀江敏幸氏の本を手に取るのはこれが二冊目である。初めて読んだのは『雪沼とその周辺』。昨年の2月のことであった。「いいなぁ、素敵な文章だ。何かもう一冊」と思い図書館の蔵書リストの中から選んだのが本書である。予約リストに登録したまま実に一年半が過ぎ、やっと今月の中旬になって借りたのだ。これがミステリーや時代小説などのシリーズものであればすぐに読みたい気になるものだが、堀江氏の小説はそうしたものでもない。好きな文章でどんどん読みたい。ただ読みたくはあっても、それを渇求するといった類いのものではない。折に触れてたっぷりした時間の中でゆっくりとページを捲りたい。そんな気持ちになる文章にたゆたう贅沢。それが堀江氏の小説だろう。

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 さて本作『河岸忘日抄』(かがんぼうじつしょう)です。

 主人公は異国の地で、ある老紳士を助けたことがある。その縁でセーヌ川河岸に繫留した船を借りて住むことになる。日々本を読む、レコードを聴く、映画を観る、料理をする、たまに訪れる郵便配達夫と、あるいは近所に住むという少女とおしゃべりする、家主を見舞うこともある。有意なものを捨て去ったような生活に身をまかせる。ただ過ぎゆく時を消費し、とりとめのない思索が積み重なってゆく。そういう小説です。これといった事件も謎もありません。主人公がそうした生活をしようと思ったいきさつは想像がつくような気がする。しかしそれが語られることはない。そうした屈託を語ろうとしない姿勢に主人公の矜持をみる思いだ。内に居つづけるか、外に出るか、じっとしているか、あるいは動くか、ためらい続けることのなんと贅沢なことか。

 主人公がそうした日々を送っているのは、けっして行き詰まったあげくの投げやりな態度ではないだろう。それは主人公が子供の頃を思い出した次のようなエピソードがあえて語られていることから推測できる。それは小学生の時に理科の実験でやった二本の電池を直列と並列につないで光の強さをを観る実験です。直列つなぎでは一個の電池の光の倍明るさになるのに、並列つなぎでは光の強さは変わらない。足したつもりなのに。しかし一見、意味がないように見える並列つなぎも、実は力を温存している。精一杯強く光るということに、そうしなければならないと考える強迫観念のようなものに、主人公は疑問を持つ。弱くてはいけないのだろうか、なぜ並列でよいと得心できないのだろうかと。それば単純な弱さではなく「水準の高い弱さ」「強い弱さ」なのにと。直列つなぎに魅せられるか、あるいは並列つなぎか。主人公は後者であろうし、本書に魅せられる読者もまた同様であろう。不肖私も少しくその気があるような気がしてちょっとうれしい。60歳で会社関係の一切を退き、酒を飲み、本を読み、映画を観、たまに自転車旅行に出かける楽しみをみずからに許す贅沢に身を委ねたい。世の中は肩書きを無くした人間に冷ややかだが、それもまたかえって気持ちが良い。

いまの世の流れは、つねに直列である。むかしは知らず、彼が物心ついてからこのかた、世の中はずっと直列を支持する者たちの集まりだったとさえ思う。世間は並列の夢を許さない。足したつもりなのに、じつは横並びになっただけで力は変わらず温存される前向きの弥縫策を認めようとしない。流れに抗するには、一と一の和が一になる領域でじっとしているほかないのだ。

                          (本書P72より)

 

 静かで美しい文章で主人公の日々の思索がそれこそ延々と書き綴られる。ふと睡魔におそわれるほど優雅である。しかしそれは退屈とは少しちがう。主人公を通して語られることの教養の高さ、思索の深さはどうだ。良質なエッセイのように脳が刺激され、イメージが拡がる。もう一度、いや何度も読み返したい本とはこうしたもののことをいうのだろう。

 

 

『新しい国へ (美しい国へ 完全版)』(安倍晋三:著/文春新書)

2022/08/29

『新しい国へ (美しい国へ 完全版)』(安倍晋三:著/文春新書)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 日本を取り巻く環境は日増しに悪化している。長引く景気低迷、押し寄せる外交・安全保障の危機、さらには少子高齢社会の訪れによる社会保障の拡充。この国のリーダーは今なにをすべきなのか?大ベストセラー『美しい国へ』に、新たな政権構想を附した完全版。


【目次】第1章 わたしの原点

    第2章 自立する国家

    第3章 ナショナリズムとはなにか

    第4章 日米同盟の構図

    第5章 日本とアジアそして中国

    第6章 少子国家の未来

    第7章 教育の再生

    増補最終章 新しい国へ

 

 真の保守とは何か?総理に返り咲いた著者による経済・外交安保の「政権公約」を附したベストセラーの完全版。保守の姿、この国のあり方を説く必読の書。
3年3ヵ月に及んだ民主党政権から、ふたたび自民党が政権与党に復帰しました。そして総理大臣の重責は安倍晋三氏が再び担うことになりました。戦後では吉田茂以来2人目、64年ぶりの総理の再登板です。長引くデフレからどう脱却するのか、緊張がつづく外交・安全保障問題にどう対処するのか。こうした疑問に答えた月刊「文藝春秋」1月号掲載の政権構想「新しい国へ」は、話題を集めました。本書『新しい国へ――美しい国へ 完全版』は、2006年に刊行した50万部を超える大ベストセラー『美しい国へ』に、この政権構想を増補した、新装完全版です。(SH)

 

 

 

 世間は今、旧統一教会云々でかまびすしい。TV、新聞などマスコミがこぞって取り上げ、安倍氏を含め自民党があたかも旧統一教会とズブズブの関係で、それによって国政がゆがめられたかのような印象を与えようとしているように見える。かつてモリカケ疑惑が取り沙汰されたときに似た様相を呈している。保守的な考えを嫌う野党と一部マスコミによる印象操作が意図的に、しかもかなりしつこくなされているように見えるのだ。どんな政治的信条を持とうとそれは自由である。もちろんその立場を表明することも。しかし自分たちが持つ信条に反するものを悪意を持って貶めようとするのはいかがなものか。モリカケ疑惑が取り沙汰されたときのことを思い出すと、当時の安倍首相が指示等直接関与したとの証拠は何もない中で、「忖度」論まで持ち出してなんとしても白(あるいは灰色)を黒にしてやろうと躍起になっていた。あまりにも不当で偏向した報道が目に余った。私は昭恵夫人が矢面に立つようなことにならないよう、ただただ我慢を重ねた安倍首相の態度にむしろ好感を持っている。「桜を見る会」に関しては言い訳の出来ない失点だろう。ただそれほどの悪意といおうか、いやらしさは感じない。いずれにしても小さな問題だ。そしてこのたびの旧統一教会問題である。力のある議員であれば、宗教関係に限らずあらゆる団体からの接触があり、そこに接点は生まれる。現に、旧統一教会に関しては自民党のみならず、野党の議員にも接触はある。さすがに公明党共産党はないが。まして政治信条が保守であれば、関係をどんどん辿っていけば、いずれどこかで国際勝共連合(反共の政治団体)との接点がでてくるのも無理からぬところ。そのこと自体は、思想信条にかかわることであり、法律に照らしても公序良俗に照らしても、これほどのバッシングを受けることでは無いはずである。今、問題になっているのは霊感商法まがいの高額な財産の寄付行為であり、そうした行為を行う悪質な団体の行事に出席するなどしたことが教団に宣伝広告的効果をもたらしたことだろう。そのこと自体は確かにあまりよろしくないし、批判もあるところだろう。ただ、今、マスコミがやっていることは多分に魔女狩り的なバッシングであって、常軌を逸している。「モリカケ疑惑」も「旧統一教会との接点問題」も不当なまでに過大に取り扱い、しかも安倍元首相や政府与党に悪印象を持たせることを意図した偏向報道が過ぎるのではないか。いやしくもジャーナリズム、それも強大な社会的影響力を持つ者は、公平公正の視点を旨とし、良識ある報道を心がけていただきたいと思うのは私だけではないだろう。特定の意図をもっていたずらに世論を扇動し国民をヒステリックに突っ走らせるのごときは先の大戦の反省として戒めてきたことではないか。その矛先が時の政権だからといって許されることではないだろう。

 安倍元首相の国葬が来月下旬に執り行われる。国葬とすべきかどうかについては意見が分かれている。特に旧統一教会に関連した報道が過熱してからは「国葬とすべきでない」という意見が増えてきている。マスコミの印象操作でいかに世論が誘導されやすいかを目の当たりにして暗澹たる気分である。確かに安倍元首相に関しては、つい最近まで政権の座にあったということがあり、未だその功績に対する評価が定まっていない。したがって国葬とすべきかどうかで意見が分かれるのも無理からぬところ。しかし安倍元総理の「功」と「罪」をあげてみれば、圧倒的に「功」のほうが大きいことは明らかだ。そのことは海外各国政府要人の追悼リアクション、即ち安倍氏に対する圧倒的な高評価をみても決定的だろう。不思議なことに日本国内にいる者にはそこまでの高い評価を受けていらっしゃったことに驚くほどだ。日本のマスコミがいかに安倍氏の功績を過小に報道し、かたや何らかの瑕疵があれば過大に報道してきたかということの証左だともいえる。人間誰しも完全無欠ではない。安倍氏とて人間。欠点もあれば失敗もある。しかし少しでも悪いところがあれば美点はすべて打ち消されるべきなのだろうか。そんなことわりはない。欠点も美点も、それはそれ、これはこれと分けて理知的に認識されるべきことがらだ。その上で素晴らしい美点、他に類をみないほどの功績は(多少の欠点には目をつぶって)賞賛されて良いのではないか。国葬とするとした判断が正しかったかどうかはさておいて、そう決まったからには安倍氏の功績を称え、彼を首相にいただいた日本国民としてそれを誇りに思い、他国要人の真摯な弔慰をありがたく受ければ良いではないか。それこそが国益にかなう。国を思い、人生をかけてこうあるべきと信ずる国の姿を実現しようとした偉大な政治家を、偏狭な料簡にとらわれて貶めるようなことはどうかやめてほしいものだ。

 前置きが長くなりすぎた。さて、本書について書く。

 安倍氏が総理として課題とした最も重要なテーマは「戦後レジームからの脱却」であり、それは一度目の就任のときも、そしてまた二度目の就任のときも変わってはいない。政治家を志したときからの終始一貫した問題意識といえる。では「戦後レジームからの脱却」とは何か。敗戦国の占領下の枠組みに閉じ込められ、枷をはめられた日本の戦後体制からの脱却に他ならない。国防・安全保障上の現実に則した態勢や緊急事態条項、国のあり方や教育の理念など独立国として持っていて当たり前のものが欠けた状態のまま七十数年が過ぎた。そしてその根っこにある憲法はひとつの理想ではあっても、現在の世界情勢の現実に合ってはいない。それは2014年のロシアのクリミア侵攻、そして今年の2月のウクライナへの本格的侵攻をみれば明らかである。北朝鮮、中国の動きも予断を許さない情勢だ。このような情勢からすれば、今の憲法は国民の生命財産、そして領土を守るうえで現実的でもなければ、有効なものでもないことは明らかだろう。日本の未来がより確かで良いものになるよう日本国民の意志で、日本国民の手で憲法を改正すべきだろう。それはとりもなおさず「日本を、取り戻す」ということである。

 本書の帯には「『戦う政治家』原点の書」と謳われている。安倍元首相ご本人はけっして本意ではないだろうが、戦わない政治家ばかりの中では「戦う」というイメージも間違いとは言えない。では何と戦うのか。誤解を恐れずに言えば安倍氏はリベラルを気取ったマスコミや言論人に扇動されやすい大衆と戦ったのである。安倍氏は国のリーダーとして正しい決断に対し大衆が必ずしも友好的でないことを知っている。それは安倍氏の祖父・岸信介氏が総理大臣として1960年に日米安全保障条約改定を押しすすめた結果退陣に追い込まれたことを子供ながらに見知ったことにも起因しているだろう。岸氏は革新勢力が大反対する文教改革も断行している。国の将来のために真に必要な施策と確信すれば、たとえ大衆に大反対の嵐が吹き荒れようと断行する。それがリーダーたるものの持つべき姿勢であり、そのことが正しかったことは歴史が証明してくれる。現に後の政治学者の多くが岸氏の政策の正当性を評価している。そうした祖父の姿は安倍氏におおきな影響を与えたに違いない。本書の中には、(私には至極真っ当な主張と思われるが)左翼系の人間にはいちいち勘にさわりそうなことが書いてある。「戦う」というよりは、「対立」することを承知のうえで、正しい主張をし議論しようとする姿勢だと評価したい。中身をよく吟味せず、とにかく「革新」だとか「反権力」という者の胡散臭さ、国家と国民を対立した概念でしかとらえないことの浅はかさ、安全保障の議論になるとすぐに軍国主義につなげ議論すら受け付けないことの無責任、国のために命を捧げた人を貶めるかのような言論のあること、邦人を拉致した北朝鮮への制裁に慎重な一派の存在、安倍氏はそうしたことに対し異を唱える。これらもまた、私には至極真っ当な主張と思われる。

 本書の中で最も重要なのは「第四章 日米同盟の構図」と「第五章 日本とアジアそして中国」だろう。外交安全保障は安倍氏が首相在任中に最も力を注いだことがらであって、世界に安倍氏の評価が高いのもそのことがあるからだろう。「第四章 日米同盟の構図」に記された考えを基に2015年の安全保障関連法(集団的自衛権行使容認)を成立させ日米同盟の強化を図った。現実的な防衛を考えればそれだけでは不十分であるが、まだまだ安全保障問題へのアレルギーが国民にある中、現実に目を向け一歩踏み出した功績は大きい。また「第五章 日本とアジアそして中国」に記された考えを基に、「自由で開かれたインド太平洋構想」を自らビジョンとして民主主義諸国に提示し、諸国の賛同を得たこと。この構想が後にQUADとして実現しつつある。

 これらのことは日本国内の政治にとどまらず、世界の政治における安倍氏のレガシーであろう。ひょっとして世界で安倍元総理の評価が一番低い国は日本ではないだろうか。そんな疑念すら頭にうかぶ現状に憤る日々を送る昨今である。

 

 

 

『八本目の槍』(今村翔吾:著/新潮文庫)

2022/08/20

『八本目の槍』(今村翔吾:著/新潮文庫)を読んだ。学生時代からの友人の推し本である。

 まずは出版社の紹介文を引く。

石田三成とは、何者だったのか。加藤清正片桐且元福島正則ら盟友「七本槍」だけが知る真の姿とは……。「戦を止める方策」や「泰平の世の武士のあるべき姿」を考え、「女も働く世」を予見し、徳川家に途方もない〈経済戦〉を仕掛けようとした男。誰よりも、新しい世を望み、理と友情を信じ、この国の形を思い続けた熱き武将を、感銘深く描き出す正統派歴史小説吉川英治文学新人賞受賞。

 

 

 

 戦国時代において私が一等好きな人物は二人。織田信長石田三成である。信長は非情なまでに理知的な判断を下せるところ。三成は理に優れるところが魅力だ。軍事だけではなく、産業、経済、社会システムのあるべき未来にビジョンを持っていた。どちらも先進的すぎたが為に人に理解されにくいところがあり、道半ばにして生涯を終えたところも共通している。二人にとっての不幸は時代が一歩、二歩遅れてついてきたこと、生まれたのが少し早すぎた。いや、先の先が見えすぎたと言うべきだろうか。

 信長の遺志を継いで天下を統べたのは豊臣秀吉だが、秀吉が天下人となれたのは三成のような能吏を召し抱えたからだろう。当時の兵站は現地調達。商人らとの交渉、金の管理、後方の組織化など有能な事務方なしには戦は勝てない。武器の調達や外交的活動も事務方の仕事である。戦の現場における勇猛果敢な武将の単独の活躍など、最前線の兵を鼓舞する効果はあったとしても大局を決するとも思えず、些か失礼な表現になるが単なるスタンドプレーでしかない。その点、三成は裏方ではあるが、兵が戦に集中し存分に働け、遠征地での長期戦であっても戦える環境を整えた。政においても旧弊にとらわれることなく聡い判断をし、有能な人材を召し抱え、自由交易を拡げようとした人物である。そのことは秀吉が治める地を活性化し、領民を潤し、結果として豊臣家の財政を潤沢にした。つまり戦闘以前のところで敵対者に勝っており、間接的に戦を有利にしたと言える。戦で名を馳せた武将らが三成を高慢で小心な人物と忌み嫌っていたように伝わるが、彼らが戦場で存分に働けたのは三成の才と献身があってのことである。後世において、かように優秀な三成が関ヶ原での勝者・徳川側の史観によってこき下ろされるのは残念なことだ。三成が嫌な奴というのは、才なき者の妬み嫉みであって、実際の三成はむしろ情に厚く、理知的であってなお義を貫く人物であって、不利とわかっていても亡き主君・秀吉の遺志を大切にした忠義の人物であったのだと。私はそう言いたい。

 前置きが長くなった。本書は賤ヶ岳の七本槍と称される武将たちを主人公にした連作短編集のかたちを取っている。本能寺の変織田信長亡き後、明智光秀が成敗され、信長が築き上げた権力と体制を誰が継承するかを決定づけた豊臣秀吉柴田勝家の戦が「賤ヶ岳の戦い」である。勝利した秀吉は天下人への階段を上っていくことになる。その戦いでめざましい働きをみせた秀吉近習の七人の武将達を称え七本槍と称した。ちなみにその七人は下記とおりで、石田三成もまた秀吉の近習に仕え「賤ヶ岳の戦い」で戦ったがその中に入っていない。しかし三成は戦場での手柄こそさしたるものがないものの、諜報・情報収集の任にあたっており戦いを勝利に導いた功をもってさらに取り立てられている。つまり七本には数えられなかった八本目の槍こそが三成であり、本書の題名になっている。

 七人それぞれが若き日に秀吉に召し抱えられ、秀吉の近習として切磋琢磨しながら程度の差こそあれ立身出世していく。彼らと共に若き日を過ごし、特にその明晰な頭脳と才知によって秀吉の側近として中枢を担うかたちで豊臣家を支えた三成。協力するにせよ、競争するにせよ、敵対するにせよ、三成と七人の槍は深く深く関係していく。そんな七人の人生を描く中で、七人の目が観た三成の真の姿が浮き彫りになっていく。立場は違えど若き日に肝胆相照らした仲間。お互いに深いところでの理解とリスペクトがある。真に才ある者が三成の才を知るのだ。凡庸な者が表面的な、しかもバイアスのかかった先入観で観る三成とはまったく違う。三成の本当の想いが明らかになったとき、熱いものが私の胸にこみあがり、心が震えた。

 三成は戦に明け暮れる世に合って、いつか争いのない世を実現したいと思い、そのためにこそ主君秀吉による天下平定をめざす。そして戦のなくなった太平の世がいかにあるべきかグランドデザインを描いていた。戦いしか能がなく何も生産しない武士は減らす。政(まつりごと)は民の手に。女性の社会進出を実現する。明晰な頭脳でビジョンを描き、それに近づくべく、たとえ他に理解されなくとも、あくまで冷徹に信念を貫こうとした三成がカッコイイ! イイ! すごくイイ!

 三成推しの私の心をこれほど震わせてくれる小説にこの先出会うことはおそらく無い。それほどの出来だ。史実とされていることに巧みにフィクションを交え、これほどまでにカッコイイ三成を描いてくれた今村氏に感謝感激、拍手(^-^)//\\ぱちぱち。