佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり』(椎名誠:著/集英社文庫)

2024/04/23

『人はなぜ恋に破れて北へいくのか ナマコのからえばり』(椎名誠:著/集英社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

目が覚めれば待ったなしのシメキリ地獄。腹が減ったらただちにメシ。妻がいなけりゃ楽しく自炊。ときにスバヤク食えるお取り寄せ商品に浮気する。家では「じいじい保育園」の園長だけど、色黒大柄天然パーマがたたって夜の公園で職務質問受けたりする。もちろんビールは毎日飲んでるけんね。まだまだ若いシーナの日常。あっちこっちをケトばしながら回遊するナマコのぶらぶらエッセイ第4弾。

 

 

 この本を持って私は先日旅に出た。3月の下旬から4月の初めにかけてのチャリンコ旅、東北への旅である。旅先でのちょっとした時間に読むための本を何にしようかと未読本の本棚を眺めて抜き出したのがこれだった。「北へいく」という言葉が目にとまったのだ。

 どうでも良いことかもしれないが、私はこれまで「恋に破れる」の”破れる”はずっと”敗れる”だと思って生きてきた。だから本書を手に取ったとき、微かな違和感を感じていた。それは本当に微かな違和感だったので、その時はその違和感をスルーしたのだったが、旅をする中でふとその違和感の正体に思い至ったのである。「人はなぜ恋に破れて北へいくのか」の”破れて”は”敗れて”の誤植ではないのかと。自転車に乗っていると実にいろいろな考え事をする。もちろんどの道を行くかを考えたり、危険を察知したり、はたまた美しい景色に心を奪われたりとめまぐるしく自転車で移動するという行為自体に集中している時もあるのだが、ふと頭の中でまったく別のことを考えている時間というのもけっこうあるものなのだ。自転車をこぎながら辞書を引くわけにいかないので、「”破れて”か”敗れて”どちらか問題」はとりあえず保留しておき、宿に着いてからスマホで辞書を引いた。

【破れる】 物が壊れる。物事に失敗する。
「服が破れる」「障子が破れる」「縁談が破れる」「社会の秩序が破れる」「国破れて山河在り」「夢が破れる」「この記録を破れる選手」「破れかぶれ」

【敗れる】 戦いや試合などに負ける。
「初戦で敗れる」「ライバルに敗れる」「人生に敗れる」

 辞書を引くとやはり「破れる」が正しいようだ。「縁談が破れる」などまさに「恋に破れる」に近い表現。なるほど「破談」といった言葉もある。私が間違っていたようだ。「敗れる」のほうも「人生に敗れる」といった表現があるので「恋に敗れる」もワンチャンあるかも・・・・と思ったが、ここは潔く自分が間違っていたと認めたほうがよさそうだ。「敗れる」は戦いや試合に負けることなのだなと納得した。ん? ここで私は恋は「敗れる」ものなのだと思い込んでいた理由にはたと思い当たった。「恋の戦争にやぶれた~乙女は悲しくて~あなたと別れて~~北国へ、北国へ、北国へ向かうの~~♬」というチェリッシュのヒット曲『だからわたしは北国へ』のメロディーが頭の中に流れたのだった。私が中学生になったばかりのころのヒット曲だっただろうか、今でもメロディーと歌詞を鮮明に覚えている。私の中で恋のイメージは思い人を恋敵と争うこと、つまり恋の戦争なのである。この曲の歌詞にある「恋の戦争にやぶれた」は「破れた」ではなく、きっと「敗れた」に違いない。なにせ戦争なのだからこれはもう疑いようもなく「敗れた(敗戦)」だろう。戦争に”破”を使うならば「撃ち破る(撃破)」であり、負けた方でなく勝った方の表現でなければならない道理。どうしても負けた側が”破”を使いたければ「破られた」とならざるを得ない。と、どうあっても「敗れた」が正しいと言いたい私は歌詞をググってみた。するとどうだ、『だからわたしは北国へ』の歌詞も「恋の戦争に破れた」となっているではないか。作詞家・林春生先生に裏切られた思いである。悲しいことだが、ここに至って私は敗北を認めた。どうやら恋は敗れるものではなく、破れるものらしい。私の五〇年にもわたる思い込みはここに敢え無く敗れ去ったのである。

【『だからわたしは北国へ』歌詞引用】

    

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 どうでも良いことをつらつらと書いてしまった。ではいよいよ本書の題『人はなぜ恋に破れて北へいくのか』問題について考えてみる。まず言っておくが、本書にその答えはない。「むかしから男も女も辛くなるとみんな北の方へニゲル。さすらいの旅に出る、というふうにキマっていた」というシーナさんの言及があったのみである。そしてその例として歌謡曲津軽海峡・冬景色』『風雪ながれ旅』『哀しみ本線日本海』『北の旅人』『北帰行』などを揚げている。先ほど私が示した『だからわたしは北国へ』もその例のひとつである。確かに失恋傷心旅には北国が似合う気がする。北国の持つ「寒い」とか「さみしい」、あるいは「鄙びた侘び」のイメージが失恋にしっくりくるからだろう。これが南国であったり南の島では、なんだか「暑い」「明るい」「活動的」といったイメージがついてまわる。なんだか新たな出合いを求める旅の趣を帯びて、未練や恨みといった心情とはほど遠い。やはり恋に破れたら北国へ行くべきだ。それが我が大和民族のメンタリティーであって、法律化こそされていないがゆめゆめおろそかにしてはならぬ不文律である。それが守れず失恋傷心ツアーなどと称して南の島に出かけ、男漁り(あるいは女漁り)をするような輩は豆腐のカドに頭をぶつけて死ねば良いのだ。

 またまたどうでも良いことを書いてしまった。本書についてもう少し書こう。本書は週刊誌『サンデー毎日』の2010年1月31日号から11月14日号までに掲載されたエッセイである。その後も連載は続き、椎名氏のHP「旅する文学館」を覗いてみると、「"ナマコ”シリーズ」のエッセイ集は2015年3月15日に『単細胞にも意地がある ナマコのからえばり10』が毎日新聞社から上梓されたようだ。その後も連載が続いているかどうかはわからない。私は『サンデー毎日』を読んだことがない。触ったこともない。「毎日」「朝日」という言葉からできるだけ離れていたい体質なのだから仕方がない。「"ナマコ”シリーズ」は休止しているかもしれないが、最近刊行されたものはと言えば『サヨナラどーだ!の雑魚釣り隊』という本が2023年10月4日に小学館から出ている。ご健勝で何より、ファンとしてうれしいかぎりである。シーナさんは今年御年80歳を迎えられるはず。いつまでもお元気であっちこっちをケトばしながら旅していただきたい。そして書きまくっていただきたい。大学3年生の時にシーナさんのエッセイ集『かつをぶしの時代なのだ』( 情報センター出版局)を読んで以来、たいていのご著書を読んできたが、まだ読んでいないものが何冊かあるようだ。これからも読んでいきたい。

『イクサガミ 地』(今村翔吾:著/講談社文庫)

2024/03/12

『イクサガミ 地』(今村翔吾:著/講談社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

東京を目指し、共に旅路を行く少女・双葉が攫われた。夜半、剣客・愁二郎を待ち受けていたのは、十三年ぶりに顔を合わせる義弟・祇園三助。東海道を舞台にした大金を巡る死闘「蠱毒」に、兄弟の宿命が絡み合う―。文明開化の世、侍たちの『最後の戦い』を描く明治三部作。待望の第二巻!

 

 

 東海道を舞台にした死闘「蠱毒」もいよいよ東京に迫るところまで来た。京都天龍寺に集まった猛者292人も残り23人にまで絞られる。「蠱毒」を仕掛けた主体は当初不明であったが、少しずつその正体が見えてきた。事は明治という新しい世を迎え、武士という旧権力が没落しただけでなく、全く存在意義がなくなったことに端を発する。価値観の転換に士族の不満がマグマのごとく溜まっているのだ。内務省内警視局と駅逓局との争いもからみ、大久保利通前島密川路利良といった大立て者の登場で「蠱毒」は単なる賞金獲得の死闘から国家の大事にもなる様相。

 次巻で果たしてどのような結末を迎えるのか、全く想像もつかない。早く最終巻を読みたい。その思いの強さ、熱さはまさに噴火寸前のマグマのごとし。

 

 

『イクサガミ 天』(今村翔吾:著/講談社文庫)

2024/03/05

『イクサガミ 天』(今村翔吾:著/講談社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

金か、命か、誇りか。
刀を握る理由は、何だ。
明治11年。深夜の京都、天龍寺
「武技ニ優レタル者」に「金十万円ヲ得ル機会」を与えるとの怪文書によって、腕に覚えがある292人が集められた。
告げられたのは、〈こどく〉という名の「遊び」の開始と、七つの奇妙な掟。
点数を集めながら、東海道を辿って東京を目指せという。
各自に配られた木札は、1枚につき1点を意味する。点数を稼ぐ手段は、ただ一つ――。

「奪い合うのです! その手段は問いません!」

剣客・嵯峨愁二郎は、命懸けの戦いに巻き込まれた12歳の少女・双葉を守りながら道を進むも、強敵たちが立ちはだかる――。

弩級のデスゲーム、ここに開幕!

 

 

 高校の先輩にして呑み友でもあるYさんからお借りした本。

 面白い。只只面白い。今村翔吾氏の本は羽州ぼろ鳶組シリーズの第一巻『火喰鳥』を呼んで夢中になり、以来、発刊されるごとに12冊を読んできた。他に『塞王の楯』、『童の神』、『八本目の槍』とどれを読んでもはずれなし。面白いことこの上なかった。本書も面白さという意味では同じだが、さらに純粋に面白さのみを追求しているという点で異彩を放つ。それは物語がぶっ飛んでいるからだ。

 時は明治。帯刀が許されなくなり、侍が侍であることの意味を見いだせなくなった時代。その時代に滅び行く侍たちのデスゲームが始まったという設定。天龍寺に腕に覚えのある者292名が集められ、各自に番号を振った木札が与えられた。「こどく」と名付けられた遊びで勝ち残った者に金十万円が与えられるという。当時の巡査の初任給は四円。年俸四八円というから、その二千年分を優に超える額である。「こどく」とは、参加者がそれぞれ持つ木札(一枚一点)を奪い合いながら東海道を辿って東京をめざせというもの。途中にいくつか関所が設けられ、その関所を越すためには設定された点数を持っていなければならないというゲームである。ゲームとは言え、おとなしく人に札を与える者などいるはずはなく、奪い合うことは殺し合うことに他ならない。主人公の剣客・嵯峨愁二郎は、ある目的のため「こどく」に参加することにした。たまたま参加者の中に十二歳の少女・双葉をを見てしまい、放っておけず双葉を守りながら東京をめざすことになった。果たして愁二郎は立ちはだかる敵を相手に、双葉を守りつつ東京へたどり着くことだできるのかという物語である。

 著者が「ただ面白く、大衆小説の王道を行く」と宣言したとおり、最高に面白いエンタメ時代小説に仕上がっている。凄惨な殺し合いシーンも、このゲーム性ゆえの非現実感があり、鬱々とせずワクワクしながら読める。読んでいて、その後どうなるか気になり、頁を捲る手がとまらない。読み終えた今、すぐに第二巻『イクサガミ 地』を手に取り読み始めた。

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『ロシアとは何か モンゴル、中国から歴史認識を問い直す』(宮脇淳子:著/扶桑社)

2024/02/27

『ロシアとは何か モンゴル、中国から歴史認識を問い直す』(宮脇淳子:著/扶桑社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

ロシアを紐解けば世界がわかる!

「偉大なるロシアの復活」を標榜してウクライナ侵攻を続けるプーチンのロシア。一体、プーチンの描くロシアとは、何百年前の、どのようなロシアなのか? ロシア人とはどのようなルーツの人々なのか? 
 習近平の中国もまた「一帯一路構想」を提唱するが、ユーラシア大陸全体を支配する世界覇権をめざしているに等しい。
「文明と文明の衝突の戦場では、歴史は、自分の立場を正当化する武器になる」と著者は説きます。ところが、「イスラム文明の内部では歴史学は意義の軽いものにすぎず、地理学の補助分野」であり「いまでもイスラム諸国は、イスラエルやヨーロッパ・アメリカ諸国との関係において、自分の言い分がなかなか通せず、つねに不利な立場に立たされている」。また日本でも、自虐史観に反発する人は対抗するものとして日本神話を持ち出したりするように、「歴史とは自分たちが納得できるように過去を説明するストーリーであり、文化や立場、国ごとの世界感や歴史認識により、その筋書きが違ってくる。よって、史実が明らかにさえなれば、紛争の当事者双方が納得し、問題が解決するというようなものではない」……と本書には、まさに現代の不安定な世界情勢を読み解く「歴史認識」への示唆が凝縮されています。
著者の夫であり師である碩学、岡田(故岡田英弘)史観のエッセンスを紐解きながら、日本人にとっての世界史理解、世界で果たすべき役割に導く内容です。

 

 

 著者、宮脇淳子氏は東洋史家である。私はYouTube東洋史家たる彼女の視点でロシアや中国にかかる現代情勢を読み解き解説していらっしゃる動画を何本か視た。大変な慧眼に感激しきり。ならば本も読んでみようと本書を手に取った次第。

 まず目から鱗が落ちたのが「日本はまわりを海に囲まれているので国境線というものが目に見えない。日本の歴史を振り返っても、領土が”時代とともに拡大縮小を繰り返した”り、国民が”入れ替わることがあった”などということが想像もできない」ということ。日本人は国というものが昔からそこに住んでいた人びとによって自然にできあがったとなんとなくイメージしている。日本の皇統が「万世一系」であるのは当然だし、国民のほぼ全員が同じ日本語を読み書き、話せることを当然と思っており、他の国も同じようなものだろうと考えがちである、しかしこれが、他国を見渡し国や領土、国民といったことを理解するのに大変問題の多い歴史観だといいます。つまりは世界の中で特殊と言える環境で成り立ってきた日本の価値観とたえず勃興と衰退あるいは滅亡、そして民族の移動と混じり合いを繰り返してきた他国の価値観が同じはずはなく、日本人の視点で世界情勢を理解しようとすると誤ってしまうということでしょう。まさに日本人あるある。私もそんな日本人の一人です。

 さらに歴史を見るうえで気をつけるべきことをキーワードとして引くと、「歴史は書いたもの勝ち」「そもそも歴史を書くという行為は、プロパガンダ、政治的な宣伝」という言葉が本書に書いてあります。これは日本の歴史として語られていることの多くが勝者の歴史であることを踏まえれば明らかです。我々が他国の歴史を読み解くとき、特に気をつけて、歴史(歴史として語られていること)とはそのようなものだと認識しておくことが大切でしょう。ゆめゆめ他国の語る歴史が事実(史実)だなどと無防備に受け取ってはならないと思います。プーチンウクライナ侵攻にあたって盛んに言い立てた歴史観はまさにその類いのナラティブでしょう。

 そのうえで東洋史中央アジア史)を専門とされる宮脇氏が紐解いたロシア史を些か乱暴ながら簡潔に要約してしまうと次のようになるのかと思う。

  1. ロシアの起源とされるルーシはスカンジナビアからの外来民族(ヴァイキング)である。ルーシ以前の東スラブにはユダヤ教のハザル帝国などがあった。ルーシはハザル帝国を倒し、東ローマ帝国キリスト教を導入した。
  2. 十三世紀にモンゴル帝国が襲来し、以後、ルーシと東スラブを四百年支配した。(タタールのくびき)
  3. モンゴル帝国の支配は比較的ゆるやかで人の移動や交易が盛んになり大きく発展した。
  4. 十六世紀にモンゴル帝国の支配から脱し、東スラブ人=ロシア人概念が確立。
  5. 二十世紀初め、ロシア革命が起きすべての歴史が否定され、マルクス主義のみを奉じる。
  6. 二十世紀終盤、ソ連崩壊によりマルクス主義も否定され、歴史もイデオロギーも失われる。

 かつて共産主義で世界をリードしたという誇りと、ヨーロッパから見下されてきたという劣等感が同居しているロシア人にしてみれば、古代ルーシを建国したのがスラブ人ではなくヴァイキングだったことや、また異民族に何百年も支配され、その庇護下で発展したというのは認めたくないことかもしれない。しかしだからといって「ならば書き換えてしまえ」とばかりに事実とは言い難いことを歴史と称するのは学問としていかがなものかというのが宮脇氏の立場です。しかし「”歴史認識”とは、”いかにして自国が有利になる歴史を認めさせるか”というゲームでしかない」というのが悲しい現実です。

 ロシアのウクライナ侵攻も中国の一帯一路も東洋史家の宮脇氏から視ると、どちらの国もそうした表現は用いないものの「モンゴル帝国の再興」を夢みていると見える。そのためのナラティブを歴史としてはならない。歴史には「よい歴史」と「悪い歴史」がある。「よい歴史」とは史料のあらゆる情報を、一貫した論理で解釈できる説明のこと。一方、「悪い歴史」とは過去を都合よく書き換え、自己正当化を目的とした歴史である。ロシアではトルベツコイやドゥーギンといった歴史家が世論を形成し、ついに国としてのあり方まで左右するほどになった。彼らが書いた歴史は、大衆から支持される歴史、都合が悪いものは割愛したり変更した歴史である。それが今日のロシアの行いにつながったのかもしれない。以上が本書に書かれたことのようです。なるほどそうした見方もあるのだと感心した。

 



 

『天地に燦たり』(川越宗一:著/文春文庫)

2024/02/22

『天地に燦たり』(川越宗一:著/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

戦を厭いながらも、戦でしか生きられない島津の侍大将。被差別民ながら、儒学を修めたいと願う朝鮮国の青年。自国を愛し「誠を尽くす」ことを信条に任務につく琉球の官人。秀吉の朝鮮出兵により侵略に揺れる東アジアを、日本、朝鮮、琉球の三つの視点から描く。直木賞作家のデビュー作にして松本清張賞受賞作。

 

 

 川越氏の小説を読むのはこれが二作目。前に読んだのは直木賞受賞作『熱源』であった。

 本作は川越氏のデビュー作にして松本清張賞を受賞したという。そして二作目『熱源』が直木賞を受賞したというのだからすごい。

 正直なところ直木賞受賞作『熱源』より本作のほうがより私の好みに合う。登場人物がこちらの方が魅力的だからである。

 戦に次ぐ戦、凄惨な殺戮に倦む大野七郎久高。島津家の重臣である。幼いころから学んできた儒学では天地万物はすべて「理」によって統べられる、人は生来「至善」であって、不善や悪に陥らず誠を尽くし続ければ人は「天地と参なる」と教えられたのに、現実は人は人たることを捨て、禽獣と変わらぬ行いを続けている。はたして人と禽獣を別つという仁や礼をそなえた王に仕えることは出来るのだろうかと疑問を持っている。また朝鮮に被差別民の白丁として生まれた明鐘。儒学を学び、いつか仕官して理由もなく虐げられる白丁たちを自由にするという夢を持つ。

 いつか二人は「天地と参なる」人をみることができるのだろうか。諦めずに人の誠と道を信じ続けることができるのだろうか。そうした問いかけが本作の肝なのだろう。ワクワクしながら読ませていただいた。

 ただ本作『天地に燦たり』は朝鮮の白丁と琉球、次作『熱源』はアイヌ樺太そしてロシアに隷属させられたポーランドを描いたとあって、権力者からの抑圧、あるいは差別や偏見などがテーマとなっており、どちらも些か教戒に過ぎる嫌いがある。川越氏の問題意識の現れだろうし、いずれ小説というものはそうしたエッセンスを含むものなのだろうが、やはり薬臭い。「薬臭い」とは本書の中で儒教的な教えをさして評した川越氏自身の言葉である。

『究極の日本酒 マリアージュで楽しむ純米無濾過生原酒16本』(杉田衛保:著/花伝社)

2024/02/16

『究極の日本酒 マリアージュで楽しむ純米無濾過生原酒16本』(杉田衛保:著/花伝社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

純米大吟醸、無濾過生原酒……いくつもの日本酒ブームを仕掛けた
名物居酒屋店主“杉田衛保"が語る“日本酒の今"

開運、宗玄、諏訪泉、秋鹿、悦凱陣、風の森、神亀、竹鶴、奥播磨るみ子の酒、鶴齢、不老泉、✛旭日、旭若松、酔右衛門、長珍

手ごろな価格でも飲める究極の16蔵

 

 飲み仲間から借りた本。この本は2016年に書かれたものだが、その頃、著者・杉田衛保氏は東京高田馬場で『真菜板』という居酒屋を経営しておられた。『真菜板』では手作りのホンモノの酒である純米無濾過生原酒しか出さなかったという。

 本書ではまず酒造りについて解説し、次に日本酒独特の飲み方である燗の効果について述べ、さらに日本酒ではあまりなじみのなかった熟成酒の魅力を語る。そしてワインにおいて盛んに語られる料理とのマリアージュについて、実は日本酒こそ食中酒として最高で、あらゆる料理に合わせて楽しめるものだと説く。まったくそのとおりだと思う。

 杉田氏が推奨する「手ごろな価格でも飲める16蔵」の紹介も納得の選出。

 実は杉田氏は今、鳥取県の智頭町に引っ越され奥様と一緒にうどん屋『真菜板』を営んでいらっしゃる。私は今年の1月19日に飲み仲間とそのお店を訪問し、杉田氏の蘊蓄を聴かせていただきながら食事した。その時に飲ませていただいた酒のリストは次のとおり。ほんとうに貴重な経験をさせていただき、ありがとうございました。その時の写真を下に貼っておきます。

【ひや】

①開運 山田錦
②開運 雄町
③宗玄 山田錦 
④宗玄 雄町
⑤諏訪泉 杉の雫   2023 玉栄
⑥諏訪泉 杉の雫 2022 玉栄
⑦諏訪泉 満点星 山田錦✖️玉栄
【燗酒】
①田中農場 強力米→阿波山田有機栽培
奥播磨 山廃
奥播磨 袋しぼり 夢錦
④宗玄 山田錦
⑤宗玄 雄町

【熟成酒】

①諏訪泉ヴィンテージ 2012年
②諏訪泉ヴィンテージ 1998年
③諏訪泉ヴィンテージ 1986年
神亀 金箔入り
②鵬 黒ラベル 2015年

 

『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール:著/河野万里子:訳/ポプラ社)

2024/02/14

『神さまの貨物』(ジャン=クロード・グランベール:著/河野万里子:訳/ポプラ社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

大きな暗い森に貧しい木こりの夫婦が住んでいた。きょうの食べ物にも困るような暮らしだったが、おかみさんは「子どもを授けてください」と祈り続ける。そんなある日、森を走りぬける貨物列車の小窓があき、雪のうえに赤ちゃんが投げられた―。明日の見えない世界で、託された命を守ろうとする大人たち。こんなとき、どうする?この子を守るには、どうする?それぞれが下す人生の決断は読む者の心を激しく揺さぶらずにおかない。モリエール賞作家が書いたこの物語は、人間への信頼を呼び覚ます「小さな本」として、フランスから世界へ広まり、温かな灯をともし続けている。

 

 

 本書は尼崎の書店、小林書店で買いもとめたもの。小林書店は町中のちいさな書店で、そうした書店のご多分に漏れず経営は厳しいと聞く。しかし経営者ご夫婦の思いの深さ、ひたむきな努力と、店の良さを知るファンに支えられて今も営業しているまれな書店だ。訪れたのが2022年12月2日のことだったので、もう1年以上本棚にあったことになる。その時その時で読みたい本を手に取っていくうち一年以上経ってしまったわけだ。読みたくて買い置いた本は今もどんどん増え続けている。なのに時間は限られている。困ったことだ。できるだけ長生きして、一冊一冊読んでいくしかない。しかし考えてみると、本を読むことにそれほどの時間をかけることができるのはなかなか出来ない贅沢だと思う。ありがたいことです。

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 語り口は童話のようなかたちをとっています。しかし中身は夢物語ではなく、第二次世界大戦でのユダヤ人に対するジェノサイド、つまり歴史的事実が物語の基盤になっています。ドイツに占領された国に貧しい木こり夫婦が住んでいます。木こりは厳しい寒さと飢えに苦しむうえに毎日強制労働にかり出され、へとへとです。おかみさんは日々の糧をなんとか得ようと毎日森をくまなく歩いて、食べものを探し、夫が労働に出る前にしかけた罠を見てまわり、薪をひろい集める毎日です。そうした厳しい毎日の中でもおかみさんは子どもを授けてほしいと祈り続けていた。戦争が続く中で森の中に線路が敷かれ列車が走るようになる。おかみさんは列車を見るのは生まれて初めてで、やがて列車に夢を見るようになる。何の希望も見いだせない毎日の中で、その列車はおかみさんには希望に思えたのだ。しかしおかみさんには決して分からなかったことだが、実はその列車は捕らえたユダヤ人を運ぶ列車だったのだ。やがておかみさんは思いきって列車に近づいていくようになった。毎日毎日、走り過ぎる列車に手を振り、大声で叫び、追いかけるようになった。そんなある日、雪の中を走り抜ける列車を追いかけるおかみさんに列車の小窓から包みが投げ出された。包みを開いてみると、なんと中には赤ん坊の女の子がいた。おかみさんがあれほど乞い願っていたものが、おかみさんの夢だったものがそこにあった。物語はそんなふうに始まります。おかみさんは食うや食わずの中で、女の子を必死に育てようとします。はじめは「神殺しの子だ」「見つかったら死刑だ」と反対していた夫も、やがてその子を心から愛するようになります。貧しく苦しい日々の中でも、愛する子どもを育てることが幸せでした。しかし幸せはいつまでも続いてはくれません。そんなお話です。

 感動的でもあり、あたたかさに満ちた物語です。しかし同時に、どうにも救いようのない人間の行いを描いた物語でもあります。実際に私はどうしても救われた気になれずにいます。いまもずっと引きずってしまっています。人間はなんと愚かで、罪深く、残虐な生きものなのだろう。そして自分もまたそんな人間のひとりなのだというやるせなさ。この物語は決して過去のものではない。今も過酷な現実は世界のあちこちにある。今、まさにこの時もウクライナで、新疆ウイグル自治区で、パレスチナでジェノサイドが行われている。人の愛を、人のあたたかさを能天気に信じられたらどれほど幸せだろう。主義も、宗教も、正義も、人を幸せにしたためしがない。いつか人が皆幸せに暮らす世の中が来るのかどうかは分からない。ちいさな戦いを、自分にできる戦いを続けるしかないのか。