佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『教団X』(中村文則:著/集英社文庫)

2022/08/17

『教団X』(中村文則:著/集英社文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

突然自分の前から姿を消した女性を探し、楢崎が辿り着いたのは、奇妙な老人を中心とした宗教団体、そして彼らと敵対する、性の解放を謳う謎のカルト教団だった。二人のカリスマの間で蠢く、悦楽と革命への誘惑。四人の男女の運命が絡まり合い、やがて教団は暴走し、この国を根幹から揺さぶり始める。神とは何か。運命とは何か。絶対的な闇とは、光とは何か。著者の最長にして最高傑作。

 

 

 

 本書は出版社の紹介文にあるように、奇妙な老人(松尾)を中心とした宗教団体、そして彼らと敵対する、性の解放を謳う謎のカルト教団(教団X、教祖は沢渡)に関係した四人の男女の織りなす物語。二人のカリスマの光と闇、希望と絶望の対比によって、宗教というものが持つ得体の知れない魅力と狂気とを浮き彫りにしている。

 本書で描かれた松尾と沢渡が主催する二つの宗教団体について少し書く。まず松尾の主催する宗教団体については、これを宗教団体と言って良いのかどうか迷うほどのゆるやかなつながりの集団である。松尾の言葉は「教祖の奇妙な話」としてかなりのページ数にわたって語られる。ブッダの悟りから、脳科学、哲学、宇宙、量子力学など、話は広汎にわたる。松尾の元に集まる者は、入信というよりは松尾の話の持つ哲学的な深みに吸い寄せられ、松尾に対する尊敬あるいは親愛の情でつながっていると言って良い。入ってくるのも出ていくのも、そこで共同生活するのも自由といった様子である。一方、沢渡が教祖の団体「教団X」はマンション一棟を教団施設とするセックス教団として描かれている。フリーセックスというより、性に対する一切の禁忌を無くしまぐわうことを一種の儀式として中心に据えているようだ。教祖沢渡の位置は松尾のそれとはまったく違い、信者は教祖への畏怖心をもとに絶対的な隷属状態にある。教祖の命令は絶対で、信者の言動はすべて教祖からの御託宣の影響下にあるという意味で思考停止(盲信:blind faith)状態にある。信者がマインドコントロールされているカルト教団と言っても良いだろう。

 その二つの教団に関わった男女四人が、教団の暴走に絡め取られ、あるいは主体ともなって世間を震撼させる事件を引き起こす。

 この物語はいったい何を言いたかったのか。私なりに考えたのは「理屈さえつければ人間はどのようなことでもする」ということ。その理屈は信仰、思想、信条、正義、理想、面子、助命、憐憫、愛などさまざま。そして「それをしたい」という願望が潜在的にあって、理屈は後付けであるということ。そう考えると日常感覚ではあり得ないカルト集団の暴走やテロ行為、残虐行為も、その行為者がどうして禁忌の壁を破ったのかがわかる気がする。

 私は若かりしころから「宗教」というものについてしばしば考えてきた。それは学校で習う歴史が「宗教はしばしば争いごとの原因となり、時の権力に利用され、時に集金マシンとなり、時に民衆を扇動する道具となって血塗られた歴史を編んできた」としか見えなかったからである。それなのに人は何故、そんな宗教を忌避するどころか信じ込み、その身を捧げてしまうのか。私から見れば騙されているとしか見えないのに。そうした疑問が今の世で現に絶えることのない世界各地の紛争や事件が起こる度に頭をもたげるのだ。そしてその結果、私は「宗教」というものを忌避している。それは新興のカルトに限らず、キリスト教だろうと、イスラム教だろうと、ユダヤ教だろうと、仏教だろうとその他あらゆる信仰を忌避してきた。いかに伝統ある宗教だろうと新興カルトと無縁ではなく、例えば原始キリスト教だって当時は新興宗教に過ぎず血塗られた歴史を重ねてきたのだから。本書を読んでやはり改めて宗教に近づきたくない思いは深まる。深い信仰には思考停止(盲信:blind faith)状態がつきもののように思えるから。その点について本書の中に示唆に富む一節があるので引いておく。

・・・・・・しかし恐ろしいと思いませんか。あらゆる宗教の聖典は、それが大昔に書かれたということのみによって信用され、それが大昔に書かれたということのみのよって変更不能なのです。

                      (本書P204より抜粋)

 これもまた思考停止(盲信:blind faith)のひとつのかたちです。ざっくり言って私は科学を信奉します。たとえ今日ほど科学が進歩してもなお人智を超えることがらが山ほど残ってしまうとしても、だからといってその空白やギャップの解決を神に求めようとは思いません。そこに宗教を必要とする人がいることを否定はしませんけれど。

 最後にひと言だけ。この物語には世論を右傾化を狙って扇動する目的を持って動く公安(政府)という設定がでてきますが荒唐無稽の感が拭えません。些か乱暴過ぎはしないかと不満が残ります。政府(権力)謀略論は折に触れ巷に囁かれることではありますが、あまりにもステロタイプな考え方で安直ではないでしょうか。いかにフィクションとはいえ、そういう設定をするならもう少し丁寧に物語を構築していただきたかった。公安(政府)がもともとそのような謀略をたくらむ組織であるかのような描き方は不当だろうと思います。

 

『エッセイベストセレクション やりにくい女房』(田辺聖子:著/文春文庫)

2022/08/10

『エッセイベストセレクション やりにくい女房』(田辺聖子:著/文春文庫)を読んだ。先日、林真理子氏のエッセイを読んで、ふと田辺聖子氏のエッセイを読んでみたくなったのだ。ずいぶん前に酒吞み友だちからいただいて本棚に置いたままだったのが本書である。読書には不思議な流れがある。そのうち読もうと本棚に並べ置いた本が数百冊ある。一つの本を読み終え、さて次は何を読もうかと本棚をながめると、ああ、次はこれだなと自然と手が伸びることがよくある。今回は林真理子氏が敬愛し親交深い女流作家という流れで本書を手に取ったのだが、考えてみれば、今日手に取られるのがベストのタイミングだったような気がするから不思議だ。

 出版社の紹介文を引く。

「昔の女房というものは、いつでも男のいうたときに寝てくれとった」「といいますと」「男とオナゴはいつもいがみ合い、ケンカしてる方がええのです」「どうしてですか」カモカのおっちゃんとおせいさんが今宵も酒を片手に語り合う、旦那と女房のオツな関係、ブスと美人の人生収支。傑作エッセイ集第2弾! 解説・土屋賢二

 

 

 うまいなぁ。味があります。林真理子氏には申し訳ないが、エッセイの質、味わいにおいて、断然、田辺聖子氏に軍配があがる。けっして林氏がヘタなのではない。田辺氏のそれが別次元ともいえるにおもしろさなのだ。

 おもしろさの要素としてカモカのおっちゃんの存在が大きい。おっちゃんとおせいさんの掛け合い漫才のような語りは、関西文化の粋とも言える。乙な肴で酒を吞みながらの雑談。時にそれはじゃれ合いであり、ある時は男と女の舌戦でもある。意見の違いにもけっして険悪になることなく軽く受け流すあたり、大人の男女、それも深く繋がっている二人の情調がほほえましい。言葉にせずともお互いを思いやりリスペクトしていることがにじみ出ている。

 もうひとつの味わいは、このエッセイが書かれた時期という背景もあるのだろうが、男女の間がギクシャクしていないこと。昨今「男」と「女」と言えば、やれジェンダーレスとやら、やれジェンダーフリーとやら、かまびすしいこと夥しい。しかしおせいさんとカモカのおっちゃんの間で、そんな小難しいことはない。かといって性差による不平等を容認しているわけではない。ある意味、「男」と「女」は違うものだという諦念が根底にあり、だからといって対立せず、お互いを立て合うという高度な精神世界があるように思う。ひと言で云えば大人の対応だ。そこには「男」と「女」が睦まじく生きていく知恵がある。こう言うと誤解されそうだが、昨今のジェンダーにまつわる小難しさ、不寛容は私には至極幼稚に見えるのだ。私はおせいさんに惚れた。

 本書の副題となった「やりにくい女房」と題された一編からカモカのおっちゃんとおせいさんのやりとりを引く。

モカ「子供ばかりか、今日びは女房(よめはん)連もやりにくうなりましてなあ」

おせいさん「どうやりにくいのですか」

モカ「昔の女房(よめはん)いうもんは、情があった。いつでも男のいうたときに寝てくれとった」

おせいさん「と、いいますと」

モカ「男いうもんはなぜかアマノジャクなもんでして、女房が一生けんめい働いていると、えてしてその気になるのです」

おせいさん「ハハア」

モカ「おせいさんは別でっせ。締切り前に鉢巻しめてがんばってたとて、物書いてるちゅうような色けない仕事は、女の仕事とはいえん。家庭の主婦が、ですな。明日の入学式に着ていこう、てんで、必死にミシン踏んでる、あるいは子供のセーターなんか、赤目吊って編んでる、そういう甲斐甲斐しい、いじらしい、無心の姿に、男心をそそられる」

おせいさん「なるほど」

モカ「または朝めし作ろう、てんでマナイタに庖丁の音をトントンさせてる、あたまを包んで腕をまくりあげての大掃除、洗濯物を干す、窓ガラスを一心こめて磨く、そういうりりしい、イソイソした、一生けんめい、一心不乱の姿が、男にはなんとも可愛らしィて、つい抱きつきとうなる、オイオイ、ちょっとこっちへおいでえな、などと呼びつけとうなります」

おせいさん「そんなもんなの、どうぞご自由に。フン」

モカ「ところが、自由にさせてくれたのは、ひと昔前の女房(よめはん)で今は違う」

おせいさん「今はどうなんです」

モカ「今は、誰に聞いても、アカンらしい、忙しいときに何ねぼけてんのん、なんて火の出るように叱られる」

おせいさん「あたり前でしょ。女には仕事の手順、手筈というものが、ちゃんとあるのですから、めったやたら邪魔されると困ります」

モカ「それが、昔の女であると、『こまるわねえ・・・・・・』なんていいながら、しぶしぶ、玄関のドアをロックし、窓をしめて、ぬれた手をふきふき、亭主の呼ぶままに奥へはいってきた」

 わかります。私はカモカのおっちゃんのいう昔を知っているとは言えないけれど、よーくわかります。要するにこれは論語に言う「恕」であります。「恕」は「他人の立場や心情を察すること。また、その気持ち。思いやり。」と解されます。相手を思いやって許す心です。先ほどの引用でいえば、カモカのおっちゃんに対し「女に思いやりを求めてるだけやないか。そんなん男のワガママ勝手で不公平やないの。」といった反論もありましょう。しかしそれは違うのです。男は違うシチュエーションで女の勝手ワガママを許すのです。いちいち不公平だの損だの差別だの言わないのです。損得でも、貸し借りでもないのです。だってパートナーですから。お互いを思いやっているのですから。許すのですから。

 本書『やりにくい女房』は田辺聖子氏のエッセイベストセレクションの第二弾である。こうなれば第一弾『女は太もも』、第三弾『主婦の休暇』も読みたい。さっそくAmazonでポチッとしてしまった。私の本棚の積読本は増え続けている。

 

『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里:著/小学館)

2022/08/08

『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里:著/小学館)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

県税事務所に勤める、年齢も立場も異なる女性たち。見ている景色は同じようで、まったく違っている―そこにあるのは、絶望か、希望か。太宰治賞作家渾身の新感覚同僚小説!

デビュー作『名前も呼べない』が大きな話題を読んだ太宰治賞作家が、自らの働く経験をもとに描く勝負作。

 

 

 

 公務員の職場、具体的には県税事務所が舞台となった小説。登場人物は当然のことながら公務員。作者・伊藤朱里氏はわざわざ小説の舞台をここに選んだわけだが、考えてみればそれは奇異なことのような気がする。というのは小説として上梓し、作者として伝えたいことを広く世間に問うからには、読者が登場人物に如何に共感するかということを考えざるを得ないが、主要な登場人物が公務員というのは共感を得づらいだろうと思うからである。これが公務員だけに読まれることを想定したのなら話は別だが、広く一般に読まれるには魅力が乏しい。何故か。公務員は仕事上の地位が保障されており、役人としてある意味権力を行使する側にある。しかし同時に税金で食わせてもらっているという市民におもねる立場でもある。生活の面では絶対的な安定があり勝ち組かもしれないが、外向きに胸を張りにくい。ヒーロー、ヒロインになりにくいのだ。(あくまで私の偏向的見解です。公務員の方には不快に感ぜられるでしょうがお許しください。)

 本書を読んでみて、それこそが伊藤氏の狙いであったのかと腑に落ちた。強い(公権力)んだか弱い(公僕)んだか中途半端な立ち位置の仕事、突っ走ることは許されず、真っ当であることを求められ、悪者になることが許されないストレスフルな職場で働く四人の女性の目線でこの物語は書かれている。

 一人目は主席で入庁した有能な若手職員中沢環。入庁後の配属は出世コースとみなされる人事であったが、県税事務所の徴収担当に配属された同期の休職の穴埋め後任として急遽異動させられてきた。二人目は中沢環の異動のきっかけとなった同期の染川裕未。税の督促の仕事に馴染めずノイローゼ気味で病気休職し、その後同じ事務所内の総務担当に異動している。三人目はパート職員の田邊陽子。若い頃、正規職員として納税事務所に勤務した経験があり、出産育児で退職したがふたたび復帰。パートとは言え職場での在籍がだれよりも長い最古参職員である。気楽な立場から休憩室での井戸端会議の中心でもある。四人目はお局様と揶揄される総務主任の堀さん。一章ごとにこの四人それぞれの視点で物語が進んでいくわけだが、その四人のほかに重要人物として須藤深雪というアルバイトがいる。須藤はなにか心身症のような病気で社会経験が少ないが、そうした人の社会復帰プログラムで採用されたという設定。そんな子だから、おどおどしていて電話を怖がる、仕事に自信がなく自分の判断でテキパキ仕事を片づけることなどとても期待できない。ドジで気が利かなくて簡単な仕事すら満足に仕上げられない。当然、職場では彼女がドジでのろまな分、他の者に負荷がかかり、ストレスの原因になっている。ただでさえストレスフルな職場で須藤深雪の存在が新たなストレスを生み出しているのだ。

 細かなところに気づき、デリケートに気を回す女性ならではのコミュニケーション能力の高さがかえって禍し、皆のストレスは熱くドロドロとマグマのように溜まってしまう。それぞれ四人の視点で彼女たちの心の中にうずまく呪詛が生々しい。

 読み手はそんな状況にうんざりしながらも読むのを止められない。放っておき、曖昧にしておけば良いのに、それが出来ず突き詰めてしまう濃密な人間関係に息苦しさを感じながら、主人公たちの心の動きに同調してしまう。

 読後感はけっしてよくありません。しかしたとえフィクションであっても身につまされることが多く、一気に読んでしまう小説でした。読みながら最近、たまたま読んだ平野啓一郎氏の「分人」という概念を頭に思いうかべた。状況により、相手により、いろんな自分に変われる「分人」という考え方が救いになりはしないだろうかと思ったのだ。つまり自分はこうあらねばならぬ、こうあるべきだと突き詰めてしまわず、ある意味いい加減に複数の人格に足場を置くことで、あるいは袋小路から抜け出すことが出来はしないかと考えたのだが、はたしてどうだろう。

 

 

 

『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎:著/講談社現代新書)

2022/08/07

『私とは何か 「個人」から「文人」へ』(平野啓一郎:著/講談社現代新書)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 小説と格闘する中で生まれたまったく新しい人間観! 嫌いな自分を肯定するには? 自分らしさはどう生まれるのか? 他者と自分の距離の取り方―。恋愛・職場・家族…人間関係に悩むすべての人へ。小説と格闘する中で生まれた、目からウロコの人間観!
<本当の自分>はひとつじゃない!分割不可能な個人として生きるから苦しくなる。これからは分人だ!作家・平野啓一郎が考える新しい人間理解のすすめ。

 

 

 平野啓一郎氏を先日『ある男』という小説で初めて読んだ。その時、小説が問いかけてきたのは「アイデンティティー」とは何か、「愛」とは何かということ。その答えにたどり着きたくて、平野氏はそれについてどう考えていらっしゃるのかを知るべく本書を手に取った。

 平野氏の論旨を正確に理解できたかどうか、些か心許ないが自分なりには以下のように理解した。

 世の中の人、ほぼ全員が人間の基本単位を「個人」("individual”=不可分)と考えている。個人が最小単位だとすると、人はそれ以上分けられない。顔、身体は一つ。人格もまた然り。そうするとある特定の個人に着目したとして、その人が会社での仕事中、恋人と一緒にいる時、家族と一緒にいる時、SNSに何かを発信する時、いろいろな顔があるのはいったいどういうことか? 大方の説明は「それは表面的にいろいろな顔(”仮面(ペルソナ)””キャラ”を使い分けているだけで、”本当の自分”は一つだけだ」というもので、皆なんとなくそうしたことで納得した気になっている。世の中皆「”仮面(ペルソナ)”はニセモノの自分で、その裏に隠れている”本当の自分”を見つけ出し、誠実な人間として自分に正直に生きるべきだ」といった強迫観念に囚われてしまっているのではないか。それがすべての間違いの元である。たった一つの「本当の自分」なんてものは無い。いろんな状況の中で、いろんな人に対して見せる様々な顔がすべて「本当の自分」であると考えた方が腑に落ちる。「個人」は分けられない最小単位ではなく、対人関係ごとの様々な自分に分かれている。それが「分人」という概念である。私とは何か。私という人間は対人関係ごとのいくつかの分人のネットワークである。そこには「本当の自分」などという中心はない。

 ほとんど「まえがき」のまとめだが、だいたい以上のことが論旨かと思う。

 そのうえで気になったフレーズを拾い上げておく。

  • (人間は)相手次第で、自然と様々な自分になる。それは少しも後ろめたいことではない。P36
  • 他者と接している様々な分人には実体があるが、「本当の自分」には実体がない。それは結局、幻想に過ぎない。・・・・・・唯一無二の「本当の自分」という幻想に捕らわれてきたせいで、・・・・・・それを知り、それを探さなければならないと四六時中唆されている。それが「私」とは何か、というアイデンティティーの問いである。P37~P38
  • あらゆる人格を最後に統合しているのが、たった一つしかない顔である。逆に言えば、顔さえ隠せるなら、私たちは複数の人格を、バラバラなまま生きられるのかもしれない。P54
  • 私たちには、生きていく上での足場が必要である。その足場を、対人関係の中で、現に生じている複数の人格に置いてみよう。その中心には自我や「本当の自分」は存在していない。ただ、人格同士がリンクされ、ネットワーク化されているだけである。P68
  • 私たちは、朝、日が昇って、夕方、日が沈む、という反復的なサイクルを生きながら、身の回りの他者とも、反復的なコミュニケーションを重ねている。人格とは、その反復を通じて形成される一種のパターンである。P70
  • 自分は、分人の集合体として存在している。それらは、すべて他者との出会いの産物であり、コミュニケーションの結果である。他者がいなければ、私の複数の分人もなく、つまりは今の私という人間も存在しなかった。P100
  • 人間は、たった一度しかない人生の中で、出来ればいろんな自分を生きたい。対人関係を通じて、様々に変化し得る自分をエンジョイしたい。いつも同じ自分に監禁されているというのは、大きなストレスである。P116
  • 愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一緒にいる時の分人が好きで、もっとその分人を生きたいと思う。コミュニケーションの中で、そういう分人が発生し、日々新鮮に更新されてゆく。だからこそ、互いにかけがえのない存在であり、だからこそ、より一層、相手を愛する。相手に感謝する。P138

 

 本書を読んで『ある男』を読むことを、あるいは『ある男』を読んで本書を併せ読むことを是非ともお薦めする。

 

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『ある男』(平野啓一郎:著/文春文庫)

2022/08/05

『ある男』(平野啓一郎:著/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

愛したはずの夫は、まったくの別人であった――。
「マチネの終わりに」の平野啓一郎による、傑作長編。

弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。
宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。
ところがある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に、「大祐」が全くの別人だという衝撃の事実がもたらされる……。

愛にとって過去とは何か? 幼少期に深い傷を負っても、人は愛にたどりつけるのか?
「ある男」を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。

第70回読売文学賞受賞作。キノベス!2019第2位。

【2022年映画公開決定!】
妻夫木聡安藤サクラ窪田正孝
ほか日本を代表するオールスターキャストが集結。
監督は『蜜蜂と遠雷』の石川慶。

 

 

 

 戸籍を交換して他人の人生を生きる。いったいどんな気分だろう。どうしてそんなことをしたいと考えたのだろう。自分を知る人がいない全く縁の無い町に行って一人で暮らしてみたらと想像したことはある。自分の過去を切り捨てて、まったく何もないところからの再スタート、そうしたことだ。しかし、それでも自分は自分であって、他人には知られていなくとも、自分の中に自分の過去はある。

 人間は過去を引きずって生きている。その人間を知る人の記憶からその人がどんな人かという大方の見方ができあがっている。しかしどうだろう。例えば大学進学を機に自分を変えたいと思い、髪型や服装、人との接し方をガラッと変えることはあるだろう。そうするとその人の印象は小中高校時代を知る人のものとは全くと言って良いほど違ってしまうことはあり得るのではないか。人はその人のことを、その人の見かけでしか知らない。見かけというのは、その人の外見のほか、プロフィール、たまたま実際に見たその人の行動という意味である。過去は不可逆である。しかし隠すことは出来る。そのうえでプロフィールを変えてしまうことが出来ればアイデンティティーはあっけなく消え去り、いとも簡単に別の人間ができあがってしまう。この物語では人と戸籍を交換し、その人間になりすます。

 自分が愛し、子までもうけた夫「谷口大祐」が死に、長い間没交渉となっているという大祐の肉親に連絡を取ってみると、夫は「谷口大祐」ではないとわかる。自分が確かなものと疑いもしなかったものが、実は何の根拠もないものでそう信じ込まされていただけなのだ。なんとも言えない居心地の悪さと得体の知れない不安が襲いかかる。自分はその人ことを本当は何も知らなかった。その人の過去と信じていたものが嘘だとわかったとき、自分が愛していた人の実像が形を失う。いったい自分はその人の何を愛していたのだろうかという思いが頭をもたげる。

 人を愛すると言うことは、その人のすべてを愛することだと思い込んできた。良いところもダメなところも、過去も現在も、目の前にある実像も頭の中のイメージも、とにかくあれもこれもひっくるめて愛するものだと思ってきた。しかしそれもこれも絶対に確かなものと言い切れないとしたら、はたして「愛」とはなんだろう。本書を読み終えた今、頭の中はぐちゃぐちゃです。

 

『後継者たち』(ウィリアム・ゴールディング:著/小川和夫:訳/中央公論社)

2022/08/01

『後継者たち』(ウィリアム・ゴールディング:著/小川和夫:訳/中央公論社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 春が来て、首長のマルに率いられたネアンデルタール人は浜辺から山間に移動してきた。平和で調和のある世界に住む仲間と一緒にフェイとロクが、冬の間留守にしていた渓流のある山間に来ると、そこには、嫉妬があり怨恨があり、首長を倒して自分が取って代わろうという野望を抱き、原罪の知恵をもった新来者=人類が侵入していた。新来者が射て来た矢を贈り物と考えるほど無邪気なネアンデルタール人を、人類は襲い、うばい、殺し、最後に残ったフェイとロクの二人も、滝壺に落ち、氷壁に押し潰されてしまう。ネアンデルタール人の滅亡である。ネアンデルタール人にとってかわった人類は、原罪をひきずりながら、暗い未来に向かって水上に舟を進めてゆく。

 われわれの祖先と同じように、原罪を背負ってあてどなくさまよう現代人に、人間の生きるべき道の探求を提示する本年度ノーベル文学賞受賞作家が、H・G・ウェルズの『気味のわるい奴ら』を下敷きにし立場をかえて描いた傑作。

 

 

 主人公はネアンデルタール人のロク。首長マルに率いられ小集団で平和に暮らしている。ある日、いつも渡っている自然の橋がなくなっているのに気づく。皆、水を怖れているので橋がなくては生活に支障を来す。しかし、橋を架け直すほどの知恵も技術もない。なんとか渡れるようになったものの、水に落ちたマルは体調を崩し帰らぬ人となる。ある日、仲間の一人が帰ってこなかった。その後もロクと同年代の女の子のフェイが仲間の食べものを探しに出掛けている間におばあさんも、 幼女リクウも、赤ちゃんも姿を消していた。新来者(ホモ・サピエンス)に殺されたり、連れて行かれたりしたのだ。しかしロクにもフェイにもそのことが正確に理解できない。彼らには他人を殺めたり、他人から何かを奪ったりという発想がない。ただあるがままに自然を受け容れ、人同士お互いに助け合い分け与え合う生活であって、自分たちだけのために何かを所有したり、まして争って奪ったりすることなど考えも及ばないのだ。自分に向けて飛んできた矢を「贈り物」だととらえるなど象徴的な出来事だ。それはとりもなおさず”無垢”であるということ。この”無垢”の前に人間の剥き出しの本性はなんと薄汚く映ることか。本書についてよく”原罪”という言葉が用いられるが、本書を読むと言うことは、まさに「原罪意識」を植え付けられ、それに対峙することに他ならない。なぜなら我々はその新来者の子孫なのだから。文明を獲得することによって、いくぶん剥き出しの本性を隠しおおすことに成功してはいても、根っこにあるものは大昔も今も変わらず醜くいやらしい人間なのだから。

 読むのにたいへん苦労した。書かれていることが何のことかわかりづらいのだ。はじめは訳のせいかとも思ったが、そうではなかった。ネアンデルタール人であるロクの視点、つまり”無垢”な者の視点で物語が書かれていることがその原因だとわかった。つまり”無垢”でない者には”無垢”であることが理解できないのだ。その意味で、私は最初から最後までかみ合わなかった。ただ変遷していく世界の中で滅び行くほか無かった者たちを見つめ、滅んでしまった当然の帰結を見届けることがただただむなしく悲しかった。だから人はどうあるべきだとか、人が地球環境に何を為し得るかなどは考える気もしない。この世は楽園ではない。環境に適応した者が生き延び、さもなくば滅びる。ここにあるのはそうした現実だけだ。

 ウィリアム・ゴールディングを読んだのはこれが二冊目である。ちょうど二年前に『蠅の王』を読んだ。無人島に不時着した少年たちの物語であったが、人が内に持つ本性が暗雲のようにたれ込め、少年たちの心に不穏なものを惹き起こすといったものであった。読後感が少し似ている。気が重い。しばらくはあっけらかんと笑うことができそうもない。

 

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『雪とパイナップル』(鎌田實:著/唐仁原教久:画/集英社)

2022/07/23

『雪とパイナップル』(鎌田實:著/唐仁原教久:画/集英社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

心があたたかくなるノンフィクション絵本です。チェルノブイリ放射能汚染で白血病になった少年アンドレイと、日本からきた若い看護師ヤヨイとの心の交流を、ベラルーシの美しい自然を背景に描いています。読む人の涙と感動をさそう作品!
チェルノブイリ放射能汚染で白血病になった少年と、日本からやって来た若い看護師との心の交流…それは8000キロを越えて生まれた小さな希望の物語でした。「人間は理解しあえる。」子どもたちに命の切なさ、大切さを伝える絵本です。

 

 

「ひとりの子どもの涙は、人類すべての悲しみより重い」。モスクワのソ連科学アカデミーのクズネソフ教授がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にあるこの言葉を引いてチェルノブイリ原発事故の影響で白血病に苦しむ少年の治療を助けて欲しいと切望されたことからこの物語(ノンフィクション)は始まる。

 私はそうした修辞を好きではない。「人ひとりの命は地球より重い」とかそういう感情過多な表現が鼻につくのだ。しかしそんなことはどうでも良い小さなことだ。この絵本に書かれた実話は人間の善なる部分をストレートに表しているし、親が子を思う気持ちもひしひしと伝わってくる。だれもが涙せずにはいられないだろう。

「許すこと、感謝すること、ほほ笑みあうこと」。私も残る人生それを忘れずに生きて行ければと思う。