佐々陽太朗の日記

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散るぞ悲しき ー 硫黄島総指揮官・栗林忠道

6月17日

散るぞ悲しき ー 硫黄島総指揮官・栗林忠道

戦局、最後の関頭に直面せり。敵来攻以来、麾下将兵の敢闘は真に鬼神を哭しむるものあり。特に想像を越えたる物量的優勢を以ってする陸海空よりの攻撃に対し、宛然徒手空拳を以って克く健闘を続けたるは、小職自ら聊か悦びとするところなり。
然れども飽くなき敵の猛攻に相次いで斃れ、為に御期待に反してこの要地を敵手に委ぬる外無きに至りしは、小職の誠に恐懼に堪へざる所にして幾重にも御詫び申上ぐ。
今や弾丸尽き水涸れ、全員反撃し最後の敢闘を行わんとするに方り、熟熟皇恩を思ひ粉骨砕身も亦悔いず
特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるに思ひ至り、縦ひ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。
茲に最後の関頭に立ち、重ねて衷情を披瀝すると共に、只管皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ永遠ヘに御別れ申し上ぐ。
尚父島、母島等に就いては、同地麾下将兵、如何なる敵の攻撃をも断固破摧し得るを確信するも、なにとぞ宜しく御願い申し上ぐ。
終わりに左記駄作、御笑覧に供す。何卒玉斧を乞ふ。
          左記
 国のため重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき
 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又 七度生まれて矛を執らむぞ
 醜草の島に蔓延るその時の 皇国の行手一途に思ふ

 

『散るぞ悲しき ー 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(梯久美子/著・新潮文庫)を読みました。

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 冒頭の引用は硫黄島総指揮官・栗林陸軍中将が大本営に発した訣別電報である。
 自分の部下たち――三〇代以上の応召兵が多数を占め、妻子を残して出征してきた者が多かった――が「鬼神を哭しむる」、つまり死者の魂や天地の神々をも慟哭させずにおかないような、すさまじくも哀切な戦いぶりを見せたことを、せめて最後に伝えようとしたものです。
 戦況悪化の中、孤立無援になった島を死守せよとの命を受け硫黄島総指揮官に着任した栗林忠道中将。アメリカに駐在武官として駐在経験があり、ハーバード大学に学ぶなど米国通であって「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」と対米開戦にも否定的だった人物です。命を受けたときには生きて帰る可能性のないことは解っていたことだろう。そんな彼が麾下に対しもっとも過酷な戦いを強いたのは何故か。もっとも過酷な戦いとは、サイパンやグァムでの戦いのように水際で上陸を阻止しようとする戦術をとらず、硫黄島の内陸部に穴を掘り地下陣地を構築し、徹底的な持久戦を行うという戦術のことである。水際で敵を阻止しようとする戦術は、それなりの戦力と装備とをもって可能な戦いであって、敵に圧倒的な物量的優位があり、しかも制空権を完全に支配された戦局にあっては無為に兵士を死なせてしまうだけである。それは早い段階で「バンザイ突撃」による玉砕というかたちで兵士に名誉ある死を与えるものでもある。つまり、過酷な持久戦に伴う「生き地獄」よりは楽な戦いとも言える。なぜならば、持久戦の末に命が助かる可能性があってこそその戦いにも希望があるのだが、硫黄島の戦いにおいては生き延びてふたたび本土の土を踏む可能性は皆無であったのだから。実際にこの戦闘における日本軍の死傷率は96%。しかし単なる玉砕にあらず、圧倒的な兵力、物資を持つアメリカ軍に対し、最後の最後まで戦い抜いた結果である。勝てる見込みなどないと知りながら、生き延びる可能性が皆無と知りながらも極限の飢えと渇きにあえぎながら、徒手空拳をもって戦った。一体何のために? 持ちこたえることで本土への攻撃が少しでも制限できればという想い、あるいは、アメリカ兵に多数の死傷者を出すことで和平交渉への糸口になればという一縷の望みもあったのかもしれない。硫黄島の戦いがあったころの戦局はアメリカがマリアナ諸島を攻略し、日本国本土に片道2,000㎞の長距離爆撃が可能であったが、東京から約1,080㎞の硫黄島が攻略されれば本土への爆撃は苛烈を極めることになる。長距離爆撃機の襲来を事前に察知し本土へ警報する役割も担えなくなる。また、記録によると硫黄島の戦いでは日本軍2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死したとある。一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害だった。戦死・戦傷者をあわせ戦列を離れた兵士数ではアメリカ軍の損害が日本軍を上回っている。栗林中将が部下に対し潔い「バンザイ攻撃」を禁じ、最後の最後まで戦い抜き一人でも多くの敵を斃すことを求めたが故の結果だろう。栗林中将は死よりも苦しい生を生きよと言い、命あるうちは最後までその命を使い切れと命じた。生きて還れぬならせめて”甲斐ある死”を配下の兵士に与えてやりたかったに違いない。
 「軍人の仕事は国民を守ること」、アメリカに駐在しアメリカ風の合理的考え方を備えた栗林中将であったが、彼は合理的に考えながらも敵に身をさらしてこその軍人という一面を持つ。栗林中将は硫黄島に赴任してまもなく島の住民をいち早く本土に避難させている。また彼は「閣下のもとで死にたい」と彼を慕って硫黄島へ向かおうとした軍属の元部下に対し「絶対にこちらに来てはならん」と合流を許していない。彼が軍人ではなく軍属であったからである。軍属とは軍に服務する身ではあるが、戦うことが任務でない人たちのことである。軍人であるからには命を賭して民を守る。配下の者には心中慟哭しながら死を命ずる。そう命ずるからには自らも殉ずる。彼は最後の攻撃において夜襲・ゲリラ戦に打って出たが、自らが敵陣へ突撃している。陸軍大将自らが敵陣へ突撃し、戦死したのは日本軍戦史上初めてといわれている。
 まさに鬼神を哭しむるものあり、読み終えて栗林中将の想いに心を致したとき涙を禁じ得ない。

最後に1945年3月17日早朝に栗林中将が大本営に発した電文を記します。大本営宛にはなっていますが、配下の将兵に呼びかけた内容になっています。

一、戦局は最後の関頭に直面せり
二、兵団は本一七日夜、総攻撃を決行し敵を撃摧(げきさい)せんとす
三、各部隊は本夜正子を期し各當面の敵を攻撃、最後の一兵となるも飽く迄決死敢闘すべし
  大君(三語不明)て顧みるを許さず
四、予は常に諸子の先頭に在り