佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『人間の建設』(小林秀雄・岡潔/著 ・ 新潮文庫)

(岡) 実際一人の人というのは不思議なものです。それがわからなければ個人主義もわからないわけです。そう言う事実を個人の尊厳と言っているのですね。利己的な行為が尊厳であるかのように新憲法の前文では読めますが、誰が書いたのですかな。書いた連中には個人の存在の深さはわからない。個人の存在が底までわかり、従ってその全体像がわかってはじめて、その人の残した一言一句も本当にわかるわけですね。いまの知識階級のごく少数の人だけでもわかってくれたらよいと思います。個人主義をごく甘く見てしまっているんです。そういう個人というものがわからなければ、もののあわれというものもおそらくわからないでしょうし、もののあわれがわからなければ平和と言ったってむなしい言葉にすぎないでしょう。

                                         (本書P86より抜粋)

 

『人間の建設』(小林秀雄岡潔/著 ・ 新潮文庫)を読みました。

 

 

人間の建設 (新潮文庫)

人間の建設 (新潮文庫)

 

 

 

まずは裏表紙の紹介文を引きます。


 

有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学アインシュタイン、俳句、素読本居宣長ドストエフスキーゴッホ、非ユークリッド幾何学三角関数プラトン、理性…主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。


 

 

 実に様々な示唆に富んだ雑談です。

  • 人には個性というものがある。芸術はそれをやかましく言っている。その個性は自己中心に考えられたもので、西洋ではそれを自我といっている。仏教ではそれを小我というが、小我からくるものは醜悪さだけだ。フローベルは、悪文は生理に合わないから息苦しいと言っているが、絵も同じ。自我が強くなければ個性はでない、個性の働きをもたなければ芸術品はつくれないと考えていろいろやっている。今の芸術家はいやな絵を押し切ってかいて、ほかの人にはかけないといって威張っている。
  • 言葉で言いあらわすことなしには、人は長く思索はできない

  • 数学は知性の世界だけに存在しうるものではない。何を入れなければ成り立たぬかというと、感情を入れなければ成り立たぬ。知性は感情を説得する力がない。まず知的に矛盾がないということを証明し、銘々の数学者がみなその結果に満足できるという感情的な同意を示さなければ数学とはいえない。

  • 一番知りたいことを、人は何も知らないのです。自分とは何かという問題が、決してわかっていません。時間とは何かという問題も、これまた決してわからない。

  • 理論物理学がしているのは破壊と機械操作だけなんです。建設は何もしていない。

  • 私が世の中で一番わからないことは、世の中がわかることである。

  • 物を考えている人がうまく問題を出そうとはしませんね。答えばかり出そうとあせっている。問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。

  • 今の個人主義は間違っている。自己中心に考えることを個人の尊厳だなどと教えないで、そこを直してほしい。(「神風」は)善悪は別にして、ああいう死にかたは小我を自分だと思っていてはできないのです。

  • 日本人の長所の一つは、時勢に合わない話ですが、「神風」のごとく死ねることだと思います。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできないとまで思うのです。欧米人にはできない。欧米人は小我が自分だとしか思えない。

  • 知や意によって人の情を強制できない。

  • 素読教育を)暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだというが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。

 などなど。

 

 私は本を読むとき、興味を惹かれたところに付箋を貼っていきます。本書を読み終えて付箋の数を数えてみました。36枚でした。新記録です。しかし興味を持っただけで決してわかったとは言えません。何度も何度も読み返し、小林秀雄氏と岡潔氏の記された他の文章を読まなければわからないでしょう。そうして知識を深めれば深めるほど前とはちがった解釈がでてくるのだろうと思います。おそらく一生かかったってわからないにちがいない。一生をかけてようやくわかるのは「わからないということがわかった」ということだけかもしれない。それでも私はこの本を何度も読み返すべきなのだろうか。

 うーん。六十歳をすぎた頃にもう一度読み返してみたい本ではある。