「ミラちゃん。ミラちゃんの一番大事なものってなんや?」
健は聞いた。唐突な質問にミラちゃんは目をぱちくりさせた。
「なんやろなあ。一番て選べへんわ。お母さんも健せんせも友だちも義太夫も大事やから」
「俺は選べる」
と健は言った。「真智さん、俺にとっての一番は未来永劫、義太夫なんです。真智さんは二番目です。それでもええですか」
「ええよ」
と真智はあっさり言った。健にしてみると決死の宣言だったので、
「はい?」
と拍子抜けした。
「だから、ええよ、二番目で」
と真智は繰り返した。「それで言うたら、うちのなかでの一番は未来永劫、ミラやもん。次に大事なのは、ミラとうちが食べていくための仕事。あんたは三番目やね」
「健せんせ、三番目やて」
ミラちゃんが笑う。
「はあ・・・・・・」
(本書P305より)
まずは出版社の紹介文を引きます。
高校の修学旅行で人形浄瑠璃・文楽を観劇した健は、義太夫を語る大夫のエネルギーに圧倒されその虜になる。以来、義太夫を極めるため、傍からはバカに見えるほどの情熱を傾ける中、ある女性に恋をする。芸か恋か。悩む健は、人を愛することで義太夫の肝をつかんでいく―。若手大夫の成長を描く青春小説の傑作。直木賞作家が、愛をこめて語ります。
一流のものだけが一流を知る。一つのものを至上と思い定めて他のものは失っても仕方なしと覚悟する。そうしなければ到達できないほどの高み。それほどの高みがあることを知るのは、その高みに至る途上にあってなお上をめざす者だけなのだ。子供は自分の限界を知らない。いずれは死ぬ運命にあることを今は意識していない。しかし、大人は、それも道を究めようとする者ならばなおさら己の限界を知っている。残された時間があまりに短いことも。本当に富士山に登ろうと決めた者だけが富士の頂に立つことが出来る。散歩のついでに登った者はいない。
本書は一般にはあまり知られていない文楽を題材にした物語。しかし、文楽の何たるかを知らない私のような者にも楽しめるものになっている。それどころか、読み終えた今は実際に文楽を観てみたい気分になっている。辞書によると「仏果」とは「仏道修行の結果として得られる、成仏(じょうぶつ)という結果」という意味らしい。芸を極めたいと志し、一心不乱に修行する。しかしそれは悟りを開いた者が行うような乱れなく超然とした修行ではない。何が正しいかを知らず迷いに迷い、どうすればよいか分からず悩みに悩む。芸ひとすじと思い定めながらも、人を好きになりその思いに胸を焦がす。人として生きて、迷い、転んでもまた立ち上がり前に進む。生きて生きて生き抜く。そうすることが芸の肥やしになる。なぜなら、文楽はそうした人の哀しみを見つめながらも慈しむ語りなのだから。「仏果を得ず」とは「修行しても修行してもこれでよいという境地に至ることの出来ない無間地獄に身を置く覚悟をする」ということなのかもしれない。
北村薫氏の<円紫さんと私>シリーズを読んで落語に興味を持ち、本書を読んで文楽を観たくなった。まだまだ知らない世界がたくさんありそうだ。やりたいことをやるには人生はあまりに短い。明日も仕事がある。そろそろ寝ないと・・・