「私が出世のために生きているとお思いか」
成貞が応えたのは、父の言葉が大方の男どもの考え方だったからだ。
「じゃあ何のために生きている」
勝成が迫った。真実、この扱いにくい息子の生きざまに興味もあった。
「己の生きたいように生きる」
斬りつける鋭さで、成貞は応えている。
「他人(ひと)をどうする」
勝成が素早く斬り返した。
「知ったことか」
成貞が叫んだ。
「そうはゆくまい」
勝成の声が沈んで来た。
「ゆかなければ死ぬ。簡単だ」
(本書P27-P28)
まずは出版社の紹介文を引きます。
徳川家光の小姓・水野成貞は、主君の暗殺を試みた刺客を誅殺した。しかし、刺客が死に際して洩らした言葉から、自分の家系に昔から確執のある敵の存在に気づく…。徳川初期の江戸を舞台に、壮大な構想を示しながら未完に終った表題作ほか、著者の文学世界を一望できる短篇、エッセイ、対談を収録。
此れも隆慶一郎氏の遺作とは。『死ぬことと見つけたり』『花と火の帝』もそうであった。飛び切りおもしろい小説が途中で読めなくなる悔しさは筆舌に尽くしがたい。かつて椎名誠氏が『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』に著した苦悶に匹敵するほどの苦しさに悶え苦しんでおります。おそらく隆氏は「死ぬときが来たから死んだ。それだけのこと」と仰るのだろうが、読み手にとっての喪失感は甚だしい。残された我々読み手は図らずも消えてしまった物語の余韻を味わい、隆氏が思い描いていたであろう展開に思いを馳せるしかない。
併せて収められた縄田一男氏との対談で伝奇小説を読むのが大好きなもの同士の弾んだ会話が読めて、お二人をとても身近に感じることが出来ました。