佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

播磨灘物語(二)

 信長は議論をしなかった。

 もしかれが議論好きな書生であったとしたら、眼前の卓子を一刀両断で切り放つような勢いで、中世的な迷妄のすべてをこのようにして亡ぼすのだ、といったであろう。

 中世は終わろうとしている。

 が、中世を中世たらしめてきた諸権威は、力を失いつつも、なお権力や権威のかたちで、あるいはひとびとの心の中で、この国に棲みつづけている。

 叡山で象徴される仏教的権威もそうであり、信長はそれを焚きつくし、殺しつくした。かれが伊勢の長島の一向一揆を退治したときも、そうであった。信長にとって阿弥陀如来というえたいの知れぬものを信じている一揆のひとびとを、政略でとりこんで味方にするか、あるいはかれらの信仰が武装蜂起につながらぬように政治的に無毒にしてゆくか、などといった方法を少しも考えなかった。

 すべて、殺した。

                             (本書P262-263より)

 

 

 

 『播磨灘物語(二)』(司馬遼太郎・著/講談社文庫)を読みました。

 

 ともすれば毛利に靡びこうとする播州の諸将を織田方へと説いてまわる官兵衛は中国の縦横家に自分を重ねたか。いよいよ官兵衛は己の活動ステージを高めはじめた。言を尽くさずとも価値観を共有できる竹中半兵衛という友も得た。歴史は信長という革命家と官兵衛のという知略家を得て新たな胎動を始めたと云える。氏素性を問わず能力のみで人を量る怜悧な信長なればこそ、理屈ではない人の感情が理解できない。そのことが、配下の者の疑心暗鬼を生じてしまう様が興味深い。荒木村重に謀叛の動きあり。どうする官兵衛。次巻のおたのしみ。

 ちなみに私、信長のファンです。えたいの知れぬものを信じず、わけがわからないが権威があるとされているものを怖れることなく廃し、新たな価値観を作っていくあたりに天才を感じます。彼の純粋な怜悧さに憧れます。大衆にはウケないでしょうけれど・・・