佐々陽太朗の日記

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『数学者の言葉では』(藤原正彦・著/新潮文庫)

『数学者の言葉では』(藤原正彦・著/新潮文庫)を読みました。

まずは出版社の紹介文を引きます。

かつてコロラド大学で教えた女子学生から挫折の手紙が届いた。著者は彼女を激励しつつ、学問の困難さを懇々と説く。だが、困難とはいえ数学には、複雑な部分部分がはりつめた糸で結ばれた、芸術ともいうべき美の極致がある。また、父・新田次郎に励まされた文章修業、数学と文学との間を行き来しながら思うことなど、若き数学者が真摯な情熱とさりげないユーモアで綴るエッセイ集。

 

数学者の言葉では (新潮文庫)

数学者の言葉では (新潮文庫)

 

 

「数学と文学のはざまにて」と題され、数学と文学の同質性と異質性に言及したパートに特に興味を引かれた。すなわち「数学と文学どちらも芸術として美と調和を追求する同質性を持つが、追求の方法において異質性を持つ。数学においては数学的感覚に基づいた論理であり、文学においては文学的感性に支えられた表現技術である」ということ。また文学が永遠を希求しつつ「人生が有限であること」を見つめるのに対し、数学は人間、時間、空間から完全に解放された透徹した目を持ち永遠の真理に到達するものなのだと理解した。うーん、なるほどと唸った次第。

 

著者の記述(数学者の言葉)を引いておく。

ある意味で文学の本質は、それが小説であれ詩歌であれ、「人生が有限である」ことに在るのではないだろうか。

 

 数学者も文学者も、「永遠なるもの」を希求していることに違いはない。ただ文学者が、「永遠なるもの」を混沌たる人生の内に見出そうとするのに対し、数学者はその外に見出そうとしている。だから数学者が外なる宇宙に透徹した眼を向ける時、内なる混沌は、澄んだ眼を雲らせるばかりである。実際、数学者が新しい理論を構成したり定理の証明をしながら、有限な人生に起因するところの諸々の情緒を意識することは絶対にない。むしろ、「無限」を意識下では仮想していると言えるかも知れない。少なくとも、時間を超越した境地にいることは確かである。

 

もうひとつ、著者のお父様である新田次郎氏の文章に対する厳しい一面がとても印象に残ったので引用しておきたい。流石は・・・と思うと同時に、ブログに駄文を書き散らかしている私のような人間には耳の痛い話である。

父が個々の文章の巧拙にはこだわらなかつたと言っても、その内容については当然厳しかった。同じ表現を一つの作品に二度使っただけでもう受け付けなかった。陳腐な表現も許さなかったが、なかんずく、情に流された表現を嫌っていた。淡々とした文章で深い情緒感を表わし、抑制のきいた言葉で精神の高揚を表わす、というのが父の理想とする文章作法だった。たった一つの安易な言葉や文章が、作品全体の品格を致命的に傷つける。たとえ読者がその場でそれを意識しなくとも、少しずつ心の中に沈殿し、締まりのない作品という印象を与えてしまう、と言っていた。こんなところは、父の作家としての厳しい一面だった。