この不条理な戯言を如何に解すべきか。
果たして「下ネタ」に溢れた短編集はマルセル・デュシャンの「泉」のようにアカデミズムを否定しうるのだろうか。「下ネタ」に文学的意味は無い。少なくとも木下古栗氏にもそのような(下ネタに文学的意味を持たせようとする)意図は無いと思われる。おそらく無邪気に使っているだけだ。しかし意味は無くとも効果はあるのではないか。我々は性的なものに無感覚でいることはできない。大方の人間が性的なものに執着と言って良いほどの興味を持っており、そしてその興味は微妙で多種多様な襞を持っている。木下氏によって文学的味付けをされた「下ネタ」はそうした心の襞に触れ、何らかの感慨を誘発するのだ。読み手としての我々は短編を突きつけられ「さてどう感じますか?」と問いかけられる。その意味で木下氏の作品は観念の小説といえる。それ故、木下氏の作品に長編小説は無いのでは無いか。長編小説としては成り立たない手法だろう。もし木下氏の手になる長編小説があるのなら、いったいどのような手法で成り立っているのか気になるところ。読みたくないが読んでみたい。とりあえずもう一冊読んでみるか。
以上、ただ一言「よくわかりません」とだけ書けば良いものを、それではバカに見えてしまうとダラダラ駄文を書いてしまった私はつくづく小者だと思う。木下古栗氏の小説はひょっとしたらそうした「知識人ぶった小者」をあざ笑っているのかもしれない。くわばら、くわばら。
(追記)
私はシジミの味噌汁にはバイアグラではなくネギをぶっ込んで飲みます。
ダイヤモンドより硬く勃起できません。
朝立ちで釘は打てません。
デジタルサイネージは勃起しないと思います。
やはり私は前衛の何たるかを理解できぬありきたりの小市民です。
最後に出版社の紹介文を引きます。
古栗フリーク続出! これ以上ない端正な日本語と繊細な描写、文学的技巧を尽くして、もはや崇高な程の下ネタや不条理な暴力、圧倒的無意味を描く孤高の天才作家、初の短篇集。