佐々陽太朗の日記

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『凶器は壊れた黒の叫び』(河野裕・著/新潮文庫nex)

『凶器は壊れた黒の叫び』(河野裕・著/新潮文庫nex)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

君が求めたものは、夢か、幸福か。新聞部の創設。柏原第二高校に転校してきた安達は、島で唯一の小学生・相原大地のために部活動を始めることを提唱する。賛成するクラスメイト達だったが、七草はそれが堀を追い込むために巧妙に仕組まれた罠であることに気づく。紐解かれる階段島の歴史と、堀が追い求めた夢。歩み続けた七年間。その果てに彼女が見つけた幸福と、不幸とは……。心を穿つ青春ミステリ、第4弾。

 

 

凶器は壊れた黒の叫び (新潮文庫nex)

凶器は壊れた黒の叫び (新潮文庫nex)

 

 

『いなくなれ、群青』から始まる階段島(かいだんとう)シリーズ4作目。思い起こせば1作目『いなくなれ、群青』を読んだのが2014年9月のことだった。その後、2作目『その白さえ嘘だとしても』を2015年6月に、3作目『汚れた赤を恋と呼ぶんだ』を今年の2月に、と読み進めてきた。

 

 

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

いなくなれ、群青 (新潮文庫nex)

 

 

 

その白さえ嘘だとしても (新潮文庫nex)

その白さえ嘘だとしても (新潮文庫nex)

 

 

 

汚れた赤を恋と呼ぶんだ (新潮文庫nex)

汚れた赤を恋と呼ぶんだ (新潮文庫nex)

 

 

 このシリーズ、読むのに結構苦労する。まず物語の舞台となる階段島という島の存在が難しい。階段島がどんな島なのか、それを正確に説明することは難しい。人は成長していく過程で「そうありたい自分」になろうとする。そのことはとりもなおさず「そうありたいと思いながらもそうでない自分」を抑え、自分の中で折り合いをつけることに他ならない。だがそうした自分の中での相剋に折り合いがつかない場合、人は「そうありたい自分」になるために「そうありたいと思いながらもそうでない自分」を捨て去るしか術がない。この小説(階段島シリーズ)の中ではそのようにして邪魔になった自分の一部を魔女に差し出し、魔女は差し出された人格を別の人として魔女が創り出し管理する世界(階段島)に閉じ込める。階段島とはそういう島です。解っていただけるだろうか。

 このシリーズを読んでいらっしゃらない人は、いきなり「魔女」と聞いてびっくりでしょう。そう、この物語の一番重要な要素はこの「魔女」なのです。「引き算の魔女」。自分に必要のない人格を消し去ってくれる魔女がいる、という都市伝説からこの物語は始まっている。

 私は思う。何かを得るためには何かを捨てざるを得ない、そんなことはいっぱしの大人ならば解りきったことだ。人はすこしずつ何かを捨て去りながら年を重ねる。年を重ねるほどそんなことにも鈍感になっていくのだろうが、それが若者なら、自分の尖った部分を捨て去る痛みはちょっとやそっとのことではない。このシリーズに登場する若者は皆、純粋で真っ直ぐだ。それゆえ、捨て去られた自分が己に対すして持つ憐憫は痛々しいほどだ。成長すると云うことが「弱い自分や間違った自分を捨て去る」ことだとすれば、どうしてそのままの自分ではいけないのかと思い悩む。その青さ、感傷がこの小説シリーズの魅力である。たまらない。どうしようもなく、私はこの小説に出会ってしまった。

 はたしてこの小説は恋愛小説なのか。それは読み手によって意見が分かれるところだろう。シリーズ4作目まで読んできてわかるのは、主人公・七草にとって真辺由宇はいつも不快な存在であるということ。しかし同時に不快な存在が消えて欲しくない、そのままでいて欲しいと願っていること。そんな真辺に寄り添い守ろうとしている。”嫌いで好き” ややこしい描き方だが、やはりこれは恋愛小説なのだろう。

 おそらくこの小説シリーズは好き嫌いがはっきり分かれる。少々乱暴だが、私はある仮説を立ててみた。KANの歌う『愛は勝つ』を好きな人間はこの小説シリーズが嫌いで、『愛は勝つ』を嫌いな人間はこの小説シリーズが好きなのではないだろうか。例の「心配ないからね 君の思いが 誰かにとどく 明日がきっとある どんなに困難でくじけそうでも 信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」ってやつです。というのも、前に書いたように河野裕氏は「好き」という感情を「不快」という感情で表現するようなややこしい作家だからです。おそらく河野氏ならば「最後に愛は勝つ」などというフレーズをを口が裂けてもつぶやかない。おそらく「愛が弱いものならば、そんな人生はいらない」みたいなことを宣うのではないか。ちなみに私はKANの歌う『愛は勝つ』が大嫌いです。(笑)