佐々陽太朗の日記

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『有頂天家族 二代目の帰朝』(森見登美彦・著/幻冬舎文庫)

有頂天家族 二代目の帰朝』(森見登美彦・著/幻冬舎文庫)を読みました。

 シリーズ第一作『有頂天家族』が上梓されてからかれこれ7年半。待ちに待った第二作をやっと読める幸せ。これ以上のものはありません。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

 

狸の名門・下鴨家の矢三郎は、親譲りの無鉄砲で子狸の頃から顰蹙ばかり買っている。皆が恐れる天狗や人間にもちょっかいばかり。そんなある日、老いぼれ天狗・赤玉先生の跡継ぎ〝二代目〟が英国より帰朝し、狸界は大困惑。人間の悪食集団「金曜俱楽部」は、恒例の狸鍋の具を探しているし、平和な日々はどこへやら……。矢三郎の「阿呆の血」が騒ぐ!

 

有頂天家族 二代目の帰朝 (幻冬舎文庫)
 

 

 阿呆嵩じて崇高となる。

 描かれているのは阿呆の熱き魂、そして真摯かつ深甚なる愛。本シリーズはふざけているように見えて、実のところ秘したる切なき思いを綴った恋物語である。前作で矢三郎は弁天に問うた言葉を私は忘れ得ない。

矢三郎:「狸であったらだめですか」

弁天:「だって私は人間だもの」

 切ないではないか。この切なさを森見登美彦氏は前作で次のように看破している。すなわち、

世に蔓延する「悩みごと」は、大きく二つに分けることができる。一つはどうでもよいこと、もう一つはどうにもならぬことである。

 矢三郎は狸なのだ。それはどうにもならぬことである。しかるに弁天は矢三郎にこんなことを言ったりするのだ。

「食べちゃいたいほど好きなのだもの」

 

 これにはまいるしかない。これはもう矢三郎にとって無間地獄である。しかし無間地獄にありながら、それを地獄としない生き方の極意が矢三郎にはあるとみえる。それは「面白きことは良きことなり!」のひと言につきる。その心は前作に書かれた次の一節に端的に表される。

狸は如何に生くべきか、と問われれば、つねに私は答える__面白く生きるほかに、何もすべきことはない。

 下鴨矢三郎は人生の達人である。自分を取るに足りないもののように扱う弁天に怒りはしない。恨み辛みを申し立てたりしない。まして己の境遇に絶望したりしない。己の運命をあるがままに受け入れ、泣き言はひと言も漏らさず、あろうことか弁天に対する思いやりすら見せるのだ。

 さて、本作です。

 今作で弁天が帰ってきた場面は印象的である。

 私(矢三郎のこと)は深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、弁天様」

 しかし弁天は物足りなさそうであった。ジロリと冷ややかな目で私を見た。

「あなた、もっと他に言うことがあるでしょう? 本当に駄目な狸ね」

「なんです?」

「・・・・・・淋しかったと仰い、矢三郎」

「淋しゅうございました。お帰りなさい、弁天様」

 弁天は満足そうに頷いた。

「ただいま帰りましたよ。面白くなるわね、矢三郎。

 

 

 あれやこれやあって弁天とのラストシーン。

 弁天は私を見つめながら呟くように言った。

「・・・・・・私って可哀相でしょう」

「可哀相だと思っていますよ」

 私がそう言うと、弁天はぽろぽろと涙をこぼして、枕に顔を押しつけるようにした。くぐもった小さな嗚咽が聞こえてきた。彼女は子どものように泣いていた。

「もっと可哀相だと思って」

「もっと可哀相だと思っていますよ」

 ふたたび雨脚が強まって、大きな雨粒が窓を叩いている。客室の中はひっそりとして、聞こえるのは廿世紀ホテルを包む雨の音と弁天の嗚咽ばかりであった。

 いみじくも二代目の言った通り、狸というのは健気なものだ。

 そうやって彼女の髪を撫でながらも、とうに私は承知していた。

 弁天に必要なのは私ではない。

 狸であったらだめなのだと。

 なんとハードボイルドなラストシーン。切ないではないか。下鴨矢三郎は狸でござる。どうしようもなくそうなのだ。矢三郎に救いがあるとすれば、それは海星という許嫁だ。矢三郎と海星は赤い糸でぐるぐる巻きに結ばれている。海星が矢三郎の前から姿を隠し、許嫁の関係から身を引いた理由たるやなんとも可愛いではないか。しかしそれをここで語るわけにはいかない。成就した恋ほど語るに価しないものはない。これはかの名作『四畳半神話体系』に書かれた登美彦氏の名言である。登美彦氏はこの物語を三部作構成とすると決めていらっしゃる由。次作完結編が待ち遠しい。

 近く矢一郎と玉瀾の結婚を祝いに下鴨神社を訪れねばなるまい。そして下鴨一族の安寧と幾久しいバカ騒ぎをお祈りしたいのだ。おそらくお詣りした後は糺の森に分け入り、矢三郎と海星の仲睦まじい姿を探し求めることになるだろう。幸せなひとときになるに違いない。