佐々陽太朗の日記

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『茶の間の正義』(山本夏彦・著/中公文庫)

『茶の間の正義』(山本夏彦・著/中公文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

茶の間の正義は、眉ツバものの、うさん臭い正義である。そこからは何ものも生まれない…。人間と世間を見つめ、寄せては返す波のごとく、真贋と美醜を問いつづけた著者、山本夏彦。何度でも読みたくなり、そのつど新しい発見をする作品集。

 

茶の間の正義 (中公文庫)

茶の間の正義 (中公文庫)

 

 

 山本夏彦翁のご著書を読むのは初めてである。きっかけは『新潮45 2018年9月号』の特集「茶の間の正義を疑え」を読んだことにある。その特集のリードに次のように書いてある。

 「茶の間の正義」とは、山本夏彦翁の言葉である。テレビなどから垂れ流される、人におもねった胡散臭い正義を言う。世の識者は裏口入学にも災害時の宴席にも激してみせるが、あまりに底が浅くないか。正義に酔い痴れて騒ぐだけで、背後に何があるか見ようともしない。そんな眉唾の正義に対してモノ申す。

 そもそも世にうさん臭い正義などあるのか、正義は正義に他ならないのではないか、と無垢な人間は思うだろう。しかし世はうさん臭い正義にあふれているのである。特に新聞、TVなど巨大ジャーナリズムが正義と称しているものに注意が必要だと私も思う。『新潮45 2018年9月号』の特集「茶の間の正義を疑え」には「裏口入学、何が悪い?」とか「”宴会自粛”は最小限でかまわない」、「いいかげんにしろ、喫煙者いじめ」といったタイトルがおどる。誤解してはいけない。なにもすべての「裏口入学」をお構いなしとしているわけでも、どんな状況にあっても「宴会自粛」を必要なしと言っているわけではない。文脈からその真意を読み取らねばならず、その真意さえ読み取れば言っていることが腑に落ちるのである。しかるに最近の報道は(昔もそうであったかもしれないが)言動の一部だけを切り取り、印象操作により大衆にそれをデフォルメしてみせ、つるし上げるのだ。まさに魔女狩り言葉狩りの様相を呈している。言論の自由やマイノリティーの人権擁護を声高に叫ぶくせに、自分たちの主張と相容れない言動に対しては徹底的な攻撃を加え追いつめようとする。まさに「寛容さを求める不寛容な人々」が跳梁跋扈している。要は「白か黒か」「100か0か」といった単純な話ではないのだ。たとえば白という概念について、純白(純粋に混じりけの無い白、つまり人間の目に見える光すべてを反射する物体から感じる色)は概念としてあったとしても、実際には存在しないように、世の中のことおしなべて真っ白を求めるのは無理がある。「無理が通れば道理引っ込む」と江戸いろはかるたにもある。物事にはちょうど良い頃合い、「中庸」「節度」「ほど好い加減」というものがあるのだ。グレーにも白に近いグレーと黒に近いグレーがある。0から100までの間には様々な数があり得る。人が百人居れば百とおりの「正義」がある。人がそれぞれに関わりながら生きていくうえは、己の「正義」だけを厳密に主張しても始まらない。おおかたこのあたりが好い加減だなと納得するしか無い。それがいやなら世間から隔絶して自分一人で生きるが良い。

 かつて巨大ジャーナリズムが説いた「正義」をお人好しにも信じた報いが今の世に問題として噴出しているのではないか。いや、大衆が巨大ジャーナリズムの言うことを信じたのではない。巨大ジャーナリズムが大衆におもねって、大衆に受けが良いかたちの「正義」を説いたのだ。巨大ジャーナリズムは商売で「正義」を説いているのであって、ニセモノの「正義」であろうがなんだろうが大衆が喜んで買ってくれてはそれで良いのであって、本当の「正義」などどうでも良いのだ。大衆は権力者や金持ち、さらには偉人をこき下ろせばヤンヤヤンヤの喝采をおくるのである。

 本書の冒頭のコラム「はたして代議士は犬畜生か」である。夏彦翁の主張を拾い書きすると概ね次のような論旨になる。

テレビはラジオを手本にした。ラジオは新聞を手本にした。すなわち、本家本元は新聞で、朝のショーは新聞の紙面そっくりである。

(中略)

茶の間の正義、茶の間のウソは新聞がモデルである。

 たとえば昭和初年、私がまだ子供だったころ、新聞は毎日財界と政界の腐敗を書いた。あんまり書くから、読者は信じた。いっそ殺してしまったらと、若者たちは井上準之助を、高橋是清を、犬養毅を、その他大勢殺した。

 古いことでお忘れなら、吉田茂首相を思い出していただく。

 彼は歴代宰相のうち、最も評判の悪い人だった。新聞は三百六十五日、彼の悪口を言った。しまいには犬畜生みたいに言った。カメラマンにコップの水を浴びせたと天下の一大事みたいに騒いだ。捕物帖の愛読者だと、その教養の低きを笑った。

(中略)

 当時彼がテロに逢わなかったのは僥倖である。

 わが国の新聞、明治以来野党精神に立脚しているという。義のためなら権威に屈しないという。自分で言うのだから眉唾ものだが、・・(中略)
 けれどもこれは、悪口雑言である。人をほめて面白く読ませるのは至難である。悪く言って面白がらせるのは容易だから、易きについたのだと私は思っている。

 どんな愚かものでも他人の悪口だけは理解する。だから柄(え)のないところに柄をすげて、読者に取り入って、それを野党精神だと自らあざむくのである。

(中略)

 その同じ新聞が、近ごろ手の裏返して、吉田老をほめる。戦後首相の第一人者、チャーチルに匹敵する大宰相、その教養の深遠なこと、座談の巧みなこと、顔色のいいことまで、ほめちぎる。ラジオ、テレビはそれに和す。

 

 書けばきりが無い。夏彦翁の随想に私はいちいち首肯する。まことに慧眼でいらっしゃる。

 奇しくも今日、10月23日は夏彦翁の命日である。夏彦翁のご著書が読み継がれ、語り継がれることを心から望む。