佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『熱帯』(森見登美彦・著/文藝春秋社)

『熱帯』(森見登美彦・著/文藝春秋社)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

汝にかかわりなきことを語るなかれ――。そんな謎めいた警句から始まる一冊の本『熱帯』。
この本に惹かれ、探し求める作家の森見登美彦氏はある日、奇妙な催し「沈黙読書会」でこの本の秘密を知る女性と出会う。そこで彼女が口にしたセリフ「この本を最後まで読んだ人間はいないんです」、この言葉の真意とは?
秘密を解き明かすべく集結した「学団」メンバーに神出鬼没の古本屋台「暴夜書房」、鍵を握る飴色のカードボックスと「部屋の中の部屋」……。
幻の本をめぐる冒険はいつしか妄想の大海原を駆けめぐり、謎の源流へ!

我ながら呆れるような怪作である――森見登美彦

 

熱帯

熱帯

 

 

 森見登美彦氏(以下、親愛の情を込めて登美彦氏と呼ばせていただく。森見氏ではいささか素っ気ないし、モリミーと呼ばせていただくほど親しくない。というより、一面識もない)がこの小説をWEB文芸誌に連載していらっしゃったのは、もう7年以上前のことである。売れっ子作家の宿命として、多くの連載をかけもちし、締め切りに追われる日々を過ごしていらっしゃった由。さぞかし苦しく辛い日々であったことでしょう。ついに2011年の夏、連載が頓挫してしまったそうである。そのあたりのことは登美彦氏のブログ『この門をくぐる者は一切の高望みを捨てよ』(2011/08/23)に「登美彦氏、締切太郎を召還する」として記されており、そしてその後、約3ヶ月間はブログすら更新されなかったのである。当時、私も大変に心配し心を痛めたものである。その3ヶ月後のブログ記事(2011/11/26)に『よつばと! ⑪』を読んだことを機にブログが再開されたことに喜ぶとともに、「未だ書けない」という苦しい胸の内を知り涙したものである。登美彦氏の心を癒やした「よつばと! ⑪」を私も読んだことは言うまでもない。

 

tomio.hatenablog.com

 

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 そのような休筆期を経て上梓された本書を読み終えて、私は今、しみじみ幸福感に浸っている。ひとつは大好きな森見節を500頁以上にわたって堪能できたこと。そしてもう一つはもう以前のようには登美彦氏の作品を読むことは出来ないのでは無いかとの不安が払拭されたこと。僥倖といわねばなるまい。これほどの小説が仕上がったのだから、もう登美彦氏は完全復活したといってもよいに違いない。

 一読者の私が偉そうに、しかも勝手に完全復活などと宣言してしまったが、昔の登美彦氏がそのまま復活したわけでは無い。登美彦氏の文章に7年の苦しみゆえの屈折とある種の苦みようなものが混じっている。登美彦氏は以前から屈折していたのだが、その屈折の仕方が複雑屈折になったと感ずるのである。かつて登美彦氏はデビュー作『太陽の塔』の中で主人公にこう科白させている。“何かしらの点で、彼らは根本的に間違っている。なぜなら、私が間違っているはずがないからだ。” 太陽の塔』において、登美彦氏は根拠のない全能感とその阿房くささを迷い無く書いた。その迷いの無さは現時点ではなくなっている。当然だろう。小説という迷宮世界の奥深くまで足を踏み入れてしまったのだから。また登美彦氏は『有頂天家族』において「悩み」について次のように書いている。 “世に蔓延する悩み事は大きく二つに分けることができる。 一つはどうでもよいこと、もう一つはどうにもならぬことである。 そして、両者は苦しむだけ損であるという点で変わりはない。” なんとそれこそなんの迷いも無く理路整然と悩むことの愚かしさを語っているでは無いか。そのうえ登美彦氏は ”面白きことは良きことなり" などと、実にあっけからんと自己肯定的な科白をのたまっているのである。明らかに当時の登美彦氏は作家としての青年期にあった。そしていまは作家としての壮年期にさしかかったに違いない。以前の登美彦氏でなくなったことに一抹のさみしさを感じるがそれは言っても詮無いことであろう。登美彦氏ファンとしては、その味の変化を受け入れ、妙味を増したことを素直に喜ぶべきだろう。

 『千一夜物語』と同様に、物語の中に物語があり、物語の登場人物が別の物語を語るという、いわば物語のマトリョーシカがこの小説のかたちである。

 本書において、魔王は僕(つまり登美彦氏)に「この門をくぐることを決めたのは君自身なのだよ」と語る。それは登美彦氏が自分自身に言い聞かせる言葉のように思える。いかに苦しくとも小説を書こうとする覚悟というより、たとえ苦しくともそうするしかないのだと自分に言い聞かせ納得させようとするかのようである。大人の態度である。おそらく作家としてこれまでに無い厚みを増した登美彦氏は本書『熱帯』において直木賞を受賞するに違いない。2018年もあと数日を残すのみとなった今、私はそう断言する。