佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『太宰治の辞書』(北村薫・著/創元推理文庫)

太宰治の辞書』(北村薫・著/創元推理文庫)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

《円紫さんと私》シリーズ最新刊、文庫化。みさき書房の編集者として新潮社を訪ねた《私》は新潮文庫の復刻を手に取り、巻末の刊行案内に「ピエルロチ」の名を見つけた。たちまち連想が連想を呼ぶ。卒論のテーマだった芥川と菊池寛、芥川の「舞踏会」を評する江藤淳三島由紀夫……本から本へ、《私》の探求はとどまるところを知らない。太宰が愛用した辞書は何だったのかと遠方にも足を延ばす。そのゆくたてに耳を傾けてくれる噺家。そう、やはり「円紫さんのおかげで、本の旅が続けられる」のだ……。《円紫さんと私》シリーズ最新刊、文庫化。 内容(「BOOK」データベースより)

 

大人になった“私”は、謎との出逢いを増やしてゆく。謎が自らの存在を声高に叫びはしなくても、冴えた感性は秘めやかな真実を見つけ出し、日々の営みに彩りを添えるのだ。編集者として仕事の場で、家庭人としての日常において、時に形のない謎を捉え、本をめぐる様々な想いを糧に生きる“私”。今日も本を読むことができた、円紫さんのおかげで本の旅が続けられる、と喜びながら

 

《円紫さんと私》シリーズ最新刊(第六作目)です。まさかこのシリーズの続編を読むことがあるとは思っておりませんでした。つまり私は第五作目『朝霧』でこのシリーズは終わりだと思っていたのです。そういえば北村氏がこのシリーズは『朝霧』で終わるという宣言をなさったという記憶はない。また、作中で主人公が亡くなったわけでもないので、続編が出るかもしれないと身構えている必要があったのだ。それを勝手に完結したと断じ、その後の動向にさほど注意を払っていなかったとはうかつであった。本書『太宰治の辞書』の単行本が上梓されたのは2015年3月のことだったようだ。なんと、もう4年も前のことではないか。文庫本が発売されたのが2017年10月。私は本屋に行っても単行本のコーナーを見て回ることはほとんどない。鞄やポケットに入れてかさばらない文庫本を持ち歩き、合間を見て読むという読書スタイルだからだ。従い2015年3月を見逃したのは仕方が無い。しかし2017年10月を見逃したのは不覚を取ったと言わざるを得ない。

 ここで第一作から第六作までを振り返って並べてみよう。

一作目『空飛ぶ馬』 

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 


二作目『夜の蟬』 

夜の蝉 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

夜の蝉 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 

 

三作目『秋の花』 

秋の花 (創元推理文庫)

秋の花 (創元推理文庫)

 


四作目『六の宮の姫君』

 

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

六の宮の姫君 (創元推理文庫)

 


五作目『朝霧』

朝霧 (創元推理文庫)

朝霧 (創元推理文庫)

 

 

六作目『太宰治の辞書』 

太宰治の辞書 (創元推理文庫)

太宰治の辞書 (創元推理文庫)

 

 

 カバーイラストは高野文子氏である。こうしてみると第一作から第五作まで主人公は少しずつ成長している。第一作で《私》は大学文学部の2年生、第四作の『六の宮の姫君』は芥川の短編小説だが、それは《私》の卒論のテーマであった。そして第五作で《私》は大学を卒業して出版社の編集者になったと記憶している。《私》の成長小説として読んでいた私としては、主人公が社会人になった(一人前に成長した)時点で完結したと勘違いしたのである。しかし第六作が出た。第六作では表紙の画を見ても主人公は落ち着いた人妻風情である。結婚して、今も出版社に勤めており、中学生の息子がいるのだ。なるほど、たいへん喜ばしいことである。

 さて、一方の円紫さん(春桜亭円紫)である。当然こちらも年を重ねているわけで、お腹周りに貫禄がでている。前半の「花火」「女生徒」の章には登場せず、後半の「太宰治の辞書」になってやっと登場する。本章でかかった演目は『佐々木政談』 。江戸南町奉行の佐々木信濃守が、お忍びで市中を見回っていると新橋の竹川町で子供たちが、お奉行ごっこ、お白州ごっこで遊んでいる。立ち止まって見ているとなんと奉行役の子どもは佐々木信濃守と名乗った。お調べは「一から十まで、つがそろっているか」でもめた喧嘩口論の裁きだ。さてさて・・・という噺。こましゃくれた子どもの頓智が微笑ましく、天下の緒奉行が子どもに一本取られる様子が滑稽な良くできた噺で、私の大好きな噺のひとつです。小説中では円紫さんはこの噺を「矢来町」つまり三代目・古今亭志ん朝から習ったとしている。YouTubeにあるのでここにリンクしておきます。名演ですね。

www.youtube.com

 落語はさておき、円紫さんはいつもながらの博覧強記ぶりを発揮します。円紫さんと私のやりとりは文系人間にはたまらないところ。「女生徒」にでてくる大学時代の同級生「正ちゃん」とのやりとりもそうなのだが、文学をめぐっての会話ににじみ出る知性が本シリーズの醍醐味である。分かる奴にしか分からないってことですね。

 さて本書は先に引いた出版社の紹介文にあるとおり『みさき書房の編集者として新潮社を訪ねた《私》は新潮文庫の復刻を手に取り、巻末の刊行案内に「ピエルロチ」の名を見つけた。たちまち連想が連想を呼ぶ。卒論のテーマだった芥川と菊池寛、芥川の「舞踏会」を評する江藤淳三島由紀夫……本から本へ、《私》の探求はとどまるところを知らない。』といった展開で綴られている。芥川龍之介「舞踏会」の花火、太宰治「女生徒」のロココ料理、その”ロココ”という言葉を太宰が引いたという辞書は果たしてどの辞書だったのか、太宰が常用し持ち歩きもしたという辞書だったのだろうか・・・と本を巡る謎を追いかけて行くのだ。恥ずかしながら私は「ピエルロチ」を知らなかった。芥川の「舞踏会」は『地獄変』(ハルキ文庫)と『教科書で読む名作 羅生門・蜜柑ほか』(ちくま文庫)に収められており、私は二度読んでいる。しかし、二度とも何の感興もわくことがなかった。「ピエルロチ」についてもどうでもよかったのだ。しかし私は本書を読んでピエール・ロチに興味を持った。それは本書「花火」の章で次の記述に出会ったからである。

 ピエルロチ 日本印象記(全) 高瀬俊郎訳

 

 懐かしい名前だ。ピエール・ロチ。今は知る人も少なくなった。しかし、かつては広く読まれていた作家なのだ。

 みさき書房に入った頃、石垣りんの『焔に手をかざして』を読んでいたら、終戦直後、野菜や米の買出しに行った時の話が出て来た。取り締まりにあい、警察に連行された石垣さんは、調べを待つ間、文庫本の『お菊さん』を開いていた。岩波文庫だろう。すると《ピエル・ロチですね》といわれ、お米を召し上げられただけで、他のものは《みんな持たせて帰してくれました》という。

 本が、取り締まる者と取り締まられる者の心を繋いだ。通い合う心を持つ同胞――と思わせたのだ。

  このエピソードを読んで、私はさっそく岩波文庫の『お菊さん』を買い求めて読んでみた。残念ながら『お菊さん』はいささかも私の心の琴線に触れることなく途中で放り出してしまった。やはり私にとってピエール・ロチはどうでも良い作家であったのだ。しかし石垣りんさんのこのエピソードは心に残った。それで良しとせねばなるまい。