佐々陽太朗の日記

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『お菊さん』(ピエル・ロチ:著/野上豊一郎:訳/岩波文庫32-546-3)

『お菊さん』(ピエル・ロチ:著/野上豊一郎:訳/岩波文庫32-546-3)を読みました。いや、正確には読み始めはしたが、途中で放り出したのであった。

 訳者のあとがき「ピエル・ロチと日本」の一部を引きます。

 ロチが「お菊さん」に於いて何を書かうとしたかに就いては、リシュリウ公爵夫人に話しかけた彼自らの獻呈詞(デヂカス)が明白に説明してゐる如く、彼と日本との交渉を主題にしたものと見るべきである。彼の神經質と氣むづかしさは、憐れむべき人形(プウペ)以上の何物でもないことを發見した女主人公をばおつぽり出してひたすらに日本的な物の本質を搜し出さうとすることに努力するやうになつた。それ故に、「お菊さん」は殆ど小説に成り得ないかの觀を呈している。それだけまた此の作品はロチの日本に對する批評をはつきりと顯前せしめている。―――これが譯者の翻譯を思ひ立つた唯一の根據である。

 ロチの此の甘味を缺いだ小説が日本人の大部分に喜ばれようとは思へない。併し、喜ばれると否とは譯者の關する所ではない。譯者は之に依り讀者に次の如きことを感じて貰えば滿足である。卽ち、一人の正直な異國の文藝家が我我の間に入り込んで、いかに我我を理解しようと努めたか、いかに我我の文化を理解しようと努めたか、といふことを。不幸にして彼はそのことに於いて十分に成功したとは思へないが、それでも尚ほ我我の最も信用すべき一箇の批評家であつたことをば失はない。少くとも明治十八年の――我我の父の時代の――日本を忠實に觀察しようとした人であつたことは確かである。

 

 訳者自身がいみじくも「ロチの此の甘味を缺いだ小説が日本人の大部分に喜ばれようとは思へない」と書いたとおり、私も日本人として全く喜ばなかった。はっきり言って不快である。百三十年も前のこと故、そういう時代だったのだと割り切れないこともない。しかしそうしなければならない理由もない。ロチにとって日本人は未開の土人であり、現地妻はペットである。焚書せよとは言わないが私は読むに値しないと思う。

 蛇足ながら、私は芥川龍之介の「舞踏会」を二度ばかり読んだことがあるのだが、二度とも何の感興をもよおすことがなかった。芥川の「舞踏会」に登場するフランス人海軍将校はロチである。これまた私にとってくだらない小説であった。

 先日読んだ北村薫氏の『太宰治の辞書』の「花火」の章に次のようなくだりがあった。

 懐かしい名前だ。ピエール・ロチ。今は知る人も少なくなった。しかし、かつては広く読まれていた作家なのだ。

 みさき書房に入った頃、石垣りんの『焔に手をかざして』を読んでいたら、終戦直後、野菜や米の買出しに行った時の話が出て来た。取り締まりにあい、警察に連行された石垣さんは、調べを待つ間、文庫本の『お菊さん』を開いていた。岩波文庫だろう。すると《ピエル・ロチですね》といわれ、お米を召し上げられただけで、他のものは《みんな持たせて帰してくれました》という。

 本が、取り締まる者と取り締まられる者の心を繋いだ。通い合う心を持つ同胞――と思わせたのだ。

 

 本書『お菊さん』を読んでみようと思ったのは、このくだりを読んだからだ。ピエル・ロチがいやな奴であっても、石垣りんの『焔に手をかざして』に出てくるエピソードは美しい。人の心のあり方とはこうあるべきだろう。

 

 

お菊さん (岩波文庫)

お菊さん (岩波文庫)