一昨日は庄野潤三氏の命日。ちょうど10年前の9月21日、穏やかに晴れた秋のお彼岸の日にご自宅「山の上の家」で逝かれたという。一昨日から二日間をかけて『庄野潤三の本 山の上の家』(庄野潤三・著/夏葉社)を読んだ。今も生きていらっしゃったころのまま残されている「山の上の家」の写真(撮影:白石和弘)、佐伯一麦氏、上坪裕介氏、岡崎武志氏のエッセイ、長女・夏子さん、長男・龍也さんが綴られたお父さまの思い出、単行本未収録作品『青葉の笛』、全著作案内などなど、まさに「庄野潤三の本」である。
ホホホ座の紹介文を引く。
今なお多くのファンを持つ 庄野潤三(1921~2009)のはじめての案内書。
川崎の生田にある庄野潤三の家が2018年の今年から、秋分の日、建国記念日の年に2日だけ、一般開放されることにあわせて作られた本書は、長く暮らした家をカラーで32ページわたり紹介、全著作の案内、単行本未収録の作品、幼いころの写真など、作家を知るための指南書。
その他、
・巻頭文/佐伯一麦
・私のお父さん/今村夏子(庄野潤三 長女)
・父の思い出/庄野龍也(庄野潤三 長男)
・庄野潤三が家族を描いたスケッチ
・単行本未収録随筆(「わが文学の課題」)
・単行本未収録中編小説(「青葉の笛」)
・庄野潤三とその周辺 /岡崎武志
・「山の上」という理想郷/上坪裕介
・全著作案内/宇田智子・北條一浩・上坪裕介・島田潤一郎
・短編・随筆リスト
・山の上の親分さんとお上さん江/今村夏子(庄野潤三 長女)
などで構成。
本書に上坪裕介氏が寄せた『「山の上」という理想郷』に”庄野文学の最大の特徴はこの「切なさ」の表現にある”と書かれている。「山の上の家」が舞台となった庄野氏の晩年の作品において、充たされた「いま」の表現は確かに切ない。ほほえましいが切ないのだ。取るに足りない日常がいかにかけがえのないものであることか。
人が生きるのであるから辛いこと、悲しいこともあったに違いない。しかし庄野氏はその中に良きものだけを見ようとした。庭には毎年つぐみがやってきて、夏には浜木綿が咲く。孫のふーちゃんから手紙をもらった。嬉しかった。楽しかった。おいしかった。キレイだった。そこには伴侶の、あるいは子どもたち、孫たち、さらにはご近所さん、友人の幸せを切ないほどに希求した姿がある。
今日は2019年のお彼岸の日。「山の上の家」が一般公開される日である。
(2019/09/23 東に向かう新幹線車中にて)
「芸術というものは誠さえこもっておれば、下手なほどよろしい」(詩人・伊藤静雄『文章』より)
本書P65
(行き届いた、よい文章について)
ちっとも大げさなことを言わないで、やさしい、平明な言葉づかいで書いていることがそのまま、こちらの胸へひとつひとつしっかりと入ってくる。
よけいなことは、ちっとも云わない。肝心なことだけ云っている。そうして、何を云い、何を云わないでおくかということを、はじめからちゃんとつかんである。書くことをよく呑み込んでいる。
本書P65
(長女夏子さんの言葉)
父と母の姿を見て思うのは「夫婦は、いい時も悪い時も決して離れてはいけない。」という事です。
本書P76
世の中生きている間には、いやなことやグチをこぼしたくなることも多いが、言っても仕方のないことは言わない。それより、どんな小さなことであれ、喜びの種子になるものを少しでも多く見つけて、それをたたえる。そのことによって生きる喜びを与えられ、元気づけられる。そういう生き方をしたいと思ってやってきました。(「喜びの種子見つけて」)
本書P105
文芸評論家の高橋英夫は「私小説は酒、女、病を描くもので、作者のこだわるもの、ネガティブなものが眼目だが、庄野氏は自分の好きな、気に入ったものだけを描いた。だから作品の背後に強烈な切り捨て、頑固な意志があるのだ。このように日常性の聖化を表現しきった氏に心残りはなかったであろう」(「読売新聞」二〇〇九年九月二五日)と追悼文を寄せた。
本書P213