佐々陽太朗の日記

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『雪沼とその周辺』(堀江敏幸:著/新潮社)

2021/02/15

『雪沼とその周辺』(堀江敏幸:著/新潮社)を読みました。まずは出版社の紹介文を引きます。

山あいの静かな町、雪沼で、ボウリング場、フランス料理屋、レコード店、製函工場、書道教室などを営む人びと。日々の仕事と真摯に向きあい、暮らしを紡いでゆくさま、その人生の語られずにきた甘苦を、細密な筆づかいで綴る最新短篇集。川端康成文学賞受賞作「スタンス・ドット」ほか、雪沼連作全七篇を収録。

 

雪沼とその周辺

雪沼とその周辺

 

 

 堀江氏の小説は初読みです。考えてみれば、普段何処へ行くにも本を持ち歩くほど本好きな私ではあるが、数々の文学賞を受賞され、芥川賞作家でもいらっしゃる方の作品をひとつも読んでいないのだなぁ。まあ、私が普段読むのは直木賞系の方が多いので当然のことだが。それに私は文学賞受賞を基準に読んでいるわけではない。たまたま出会った本、それは本屋で見かけたり、知り合いが勧めてくれたり、新聞の書評欄や小説の作中で主人公が夢中になって読んでいる場面に出くわしたり、そんな偶然からピンときた本を読んできたのだ。だから、私がこれまで堀江氏の小説を読まなかったのはそういう巡り合わせであったというだけで、それ以上でも以下でもない。そして今回はたまたま、さるお方のブログを読んでこの本に興味を持ったのだ。まさにピンときたのである。こういう風に出会った本にまずハズレはない。まさに極上至福の読書時間でした。

 7つの短編が収められているが、題名のとおり「雪沼」という山あいの町を小説の舞台とした連作短編のかたちをとっている。雪沼は小学校の近くに町営のスキー場があるような田舎町。ショッピングセンターのような大きな商業施設は車で15分ほどの隣町に行けばあるが、この町は夜、8時、9時になれば店の灯りが消えてしまうような片田舎だ。あわただしい都会とちがって、すこし時間がゆっくりと流れているような町である。雪沼はモデルにした実際の町があるかもしれないが、おそらく架空の町だ。

 そんな町に住む人びとは、よそから来て住みついた人もあれば、子どもの頃からずっと暮らしている人もあり、当然のことながら、生きてきたそれぞれの過去があり、様々な運命、出来事による歓び、悲しみ、屈託といった心の襞を内に秘めて生きている。そうした人びとがけっして押しつけがましくなく、そっと寄り添うような距離感を持って暮らしている。七つの短編はそれぞれが独立してはいるが、登場人物がそうした距離感を持って少しずつ繋がっているかたちで『雪沼とその周辺』ができあがっている。

 文章はあくまで品よく、喜怒哀楽といった直截な感情は抑え気味に、しかしだからこそ切なく、登場人物の心のうちを想像するに、時に涙するほど胸にせまってくる。

 出色の出来はやはり一篇目の「スタンス・ドット」だろう。「やはり」と言ったのは、前出の出版社紹介文にもあるとおりこの短編が「川端康成文学賞」受賞作だからで、この作品の良さは衆目の認めるところ。私が気に入ったのは主人公が営むボウリング場が遠目にはレストランのように見えるこぢんまりした建物で、レーンは5レーンのみ、他にはピンボール1台とナインボール用のビリヤードが1台あるきりというスタイリッシュな空間であること。ボウリングの機械はアメリカで廃物になりかけていた古いモデルをわざわざアメリカから運ばせている。理由はボールがピンをはじくときのちょっと重たくて、くぐもった感じの、それでいてあたたかい音に魅せられたから。ボウリングがブームになった時代も、決して新しくすることなく、施設を拡張もせず頑なにそのままの姿を保ってきた。主人公が持つ美意識であって、世の中が変わろうと、もっと儲けられそうな機会があっても変わることがない。そうしたストイックな生き方を描いたこの短編はハードボイルドのテイストに仕上がっており、短編集の最初にこのものがたりを持ってきたことによって、のどかな田舎の野暮ったさが影を潜め、他の六篇のものがたり全体にある種の張りつめた緊張感を与えている。そして閉館するボウリング場と年老いた経営者のイメージが雪沼がやさしくあたたかい町であっても、同時に少しずつ古びていく町であって、そこになにかしらの不安と切なさを感じさせる。

 個人的には「イラクサの庭」と「送り火」が好み。「イラクサの庭」の氷砂糖のエピソードと、「送り火」でこの上なく大切に育てていた一人息子に先立たれてしまった男が、このうえない悲しみの淵にありながら、絶望と悲嘆にくれる妻をあたたかく見守りながら、針金でも入っているんじゃないかと疑いたくなるほどまっすぐ背筋を伸ばして生きる姿に涙した。

 ちなみに本書は2004年に第40回谷崎潤一郎賞を受賞したようです。賞を受賞しているからというわけではありませんが、良い小説を読ませていただきました。清宮質文氏の装画を使った装幀もまるで一篇の詩のようですばらしい。