佐々陽太朗の日記

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『憲法くん』(松元ヒロ:作/武田美穂:絵/講談社)

2021/05/03

憲法くん』(松元ヒロ:作/武田美穂:絵/講談社)を読みました。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

「こんにちは、憲法です。70歳になりました。わたしがリストラされるといううわさを耳にしたんですけど、ほんとうですか」そんな科白からはじまる、芸人・松元ヒロ氏のひとり芝居『憲法くん』の舞台を、平和を愛してやまない絵本作家・武田美穂氏が絵本に仕立てます。憲法改正の動きが急な状況のなかで、本書は静かに、心をこめて、「日本国憲法」の大切さを訴えます。

 

憲法くん

憲法くん

 

 

 

 2021年の憲法記念日。雲ひとつないみごとな晴天です。しかし、世はコロナ禍で不要不急の外出自粛が要請されています。午前中にロードバイクでトレーニングをした後は自宅に籠もっています。そこで今日は何を読もうかと積読本の本棚から選んだのがこれ、『憲法くん』です。

 作者の松元ヒロさんはコントグループ「ザ・ニュースペーパー」の元メンバー。1998年からは独立して、今はピン芸人として活躍なさっています。風刺の効いた芸風は小気味良く、ところどころ私の考えとの違いを感じつつもファンでいます。本の帯に本書に寄せた松元氏のメッセージがあります。

憲法くんは、まだまだ元気です。

平和のことも政治のことも、楽しく語り、

笑いとともに考えていくつもりです。

だからみなさん、

憲法くんがいつまでも元気で長生きできるように、

みんなで力を尽くしましょう。

 明らかな護憲派です。本書も憲法9条を題材としたネタを絵本にしたものです。

 この本の肝は次のとおりかと思います。憲法くんはあるとき憲法を変えたいという人に質問をしました。「どうして、わたしを変えようとするんですか?」と。そうしたら答がこう返ってきました。「現実にあわないからだよ」と。それを聴いた憲法くんの主張はこうです。憲法は戦争が二度とあってはならないという思いから生まれた理想だったのではないか。理想と現実がちがっていたら、ふつうは、現実を理想に近づけるように努力するものではないのか、と。

 正論です。強烈なインパクトを持って聴く者の胸を打つ言葉です。読んだ私も思わず「おぉ!」とのけぞったほどです。しかし、私の胸中にはなにやらモヤモヤが残ります。私も「憲法が現実にあわない」と考える一人だから。つまり改憲論者なのだと言ってしまって差し支えありません。

 その後に、憲法前文が引かれます。一部を抜粋し、私が憲法を考えるうえで重要だと思う部分を強調して引きます。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。

 

 ここで私のモヤモヤの原因が明らかになります。後段の「われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する」には全く異存ありません。問題はその前、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の部分です。「平和を愛する諸国民」はいったいどこにいるのか。信頼に足る「公正」と「信義」はいったいどこにあるのだろうか。はなはだ疑問と謂わざるをえません。そもそも日本がこの占領憲法を押しつけられたとき、本当の意味で平和を愛する諸国(国民)などどこにあったというのでしょう。平和にもいろいろなかたちがある。それぞれの国が自国に都合の良い平和を愛していたのではないか。この占領憲法を押しつけた国ですらあれから75年も経った未だに戦争に手を染めているではないか。現実と理想にギャップがありすぎるではないかと。現在の周辺諸国の公正と信義は信頼するに足りないと。北方領土は返還されない。竹島は不法占拠されたまま。我が国の国民を拉致して帰さずミサイルで脅しをかける国がある。尖閣諸島も脅かされている。

 そう、私のモヤモヤは「平和憲法はその前提が崩れている」という点にあります。たまたま私は昨日、マキアヴェリの『君主論』を読んでいました。マキアヴェリは『君主論』にこう記しています。

  • 人は戦争を回避したさに、混乱をそのままもちこすべきではない。戦争は避けられないものであって、ぐずぐずしていればあなたの不利益をまねくだけだ。(第3章「混成型の君主国」より)

  • 人が現実に生きているのと、人間がいかに生きるべきかというのとは、はなはだかけ離れている。だから、人間いかに生きるべきかを見て、現に人が生きている現実の姿を見逃す人間は、自立するどころか、破滅を思い知らされるのが落ちである。なぜなら、何事につけても良い行いをすると広言する人間は、よからぬ多数の人々の中にあって破滅せざるをえない。したがって、自分の身を守ろうとする君主は、よくない人間にもなれることを習い覚える必要がある。(第15章「人間、ことに世の君主の、毀誉褒貶はなにによるのか」より)

  • 愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。・・・・ 人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見放されることがない。(第17章「冷酷さと憐れみぶかさ。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいか」より)

  • どこの国もいつも安全策ばかりとっていられるなどと思ってはいけない。いやむしろ、つねに危ない策でも選ばなければならないと、考えてほしい。物事の定めとして、一つの苦難を避ければ、あとはもうなんの苦難にも遭わずにすむなどと、とてもそうはいかない。思慮の深さとは、いろいろの難題の性質を察知すること、しかもいちばん害の少ないものを、上策として選ぶことをさす。(第21章「君主が衆望を集めるには、どのように振るまうべきか」より)

 75年前に制定された日本国憲法より約500年ちかく前に書かれた『君主論』のほうが現実に即していると思えるが如何か。特に下線を引いた箇所などはマキアヴェリの慧眼ゆえの箴言と思う。

 世界はこの75年間に少しはましになっただろう。しかし現状を見るに理想はまだまだはるか遠くにあり、憲法くんが主張するようには行きそうもない。残念なことだが、現状はマキアヴェリの言葉に耳を傾けたほうが良さそうだ。だがいつか「憲法くん。君の言うとおりだね」と言える日を夢みます。良い本を読ませていただきました。

 

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