佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『たんぽぽのお酒 Dandelion wine』(レイ・ブラッドベリ:著/北山克彦:訳/晶文社)

2021/06/28

『たんぽぽのお酒 Dandelion wine』(レイ・ブラッドベリ:著/北山克彦:訳/晶文社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

輝く夏の陽ざしのなか、12歳の少年ダグラスはそよ風にのって走る。その多感な心にきざまれる数々の不思議な事件と黄金の夢…。夏のはじめに仕込んだタンポポのお酒一壜一壜にこめられた、少年の愛と孤独と夢と成長の物語。「イメージの魔術師」ブラッドベリがおくる少年ファンタジーの永遠の名作。12歳からみんな。

 

 

 

 時は六月のある朝。ダグラス・スポールディングは十二歳。ところはイリノイ州グリーン・タウン。町はまだ安らかに眠っている。静かな朝だが夏の気配がみなぎっている。夏の気配にシンクロするようにダグにも精気が満ち満ちている。夏の最初の朝。一九二八年の夏が今はじまった。

 夏は来て、去っていく。自然の循環の中では毎年の繰り返しに過ぎない。しかし少年にとって十二歳の夏は特別のものなのかもしれない。世界はすべてが新しく不思議に満ちている。彼は世界のあらゆるものを見たい、さわりたい、聴きたい、嗅ぎたい、味わいたい、感じたいと興味津々。色、光、香り、小鳥、樹、花、水、太陽、月、老人、孤独な人、恋する人、機械、夜、暗闇、死、押しよせてくるあらゆるもののイメージを感受する。十二歳は世界を自分なりに解釈し智覚しようとする年ごろ。まだ何も決めつけのない感性は揺らいではいるがしなやかで自在に拡がる。

 プロットが論理的にきちんと組み立てられているような一貫したストーリーはない。ダグの十二歳の夏のエピソードがオムニバスのように連なる。

 ここに書かれたのは次のようなこと。
 例えば、なんでもかんでも時間を省き、仕事を省いて効率化することのつまらなさ、自動車で時速八十マイルでとばすより、散歩が素晴らしいこと。一見ありきたりでささいなことにより味わいがあり、だからこそ大切なのだということ。
 例えば、パリに行きたいと念願していたとして、その願いを機械がバーチャルでかなえて見せてくれたなら、本当に幸福を感じられるのだろうか。その機械は本当に《幸福マシン》なのだろうかということ。
 例えば、人はどうして入場券の半券や劇場のプログラムを取っておくのか。人はいくらかつてあったものになろうとしてみたところで、今ここに現にあるものにしかなれないというのにということ。
 例えば、人は老いていくが、精神はいつも若々しいままかもしれない。人はその人と丁度良い具合に巡り会うために、遅く生まれすぎたかもしれないし、早く生まれすぎたかもしれない。でも生まれ変わっていつか・・・ということだってあるかもしれないということ。
 例えば、人はいつかは死ぬのだということ。幼いときには考えもしなかった死というものへの戸惑い。こんなにも生気に満ち、眩いばかりに輝く夏にも死の影はあるのだということ。
 ブラッドベリはダグのそんなひと夏を感性とイメージと言葉の洪水で描いた。暗喩による表現、情景描写が多く、翻訳ということも相俟って読み進むのに苦労する。投げ出さずに丁寧に読んだつもりだが、きちんと理解できたかどうか心許ない。しかし齡六十一歳を数える私の胸がキュンと切なくなったということは、少しは彼が描いた世界を理解できたということだろう。

 三十一歳で独身の新聞記者の青年と九十五歳の老婦人ヘレン・ルーミスの邂逅のエピソードが特に好きだ。同時代に生まれず、この世ではすれ違ってしまった二人が来世では・・・というロマンチックなエピソードだ。
 本書は図書館で借りた。海外文学の書架を探したがそこにはなく、図書館員に尋ねると推薦図書として別の書棚に展示してあった。中学生向きとして推薦してあったが、それは如何なものだろう。一般の中学生には難しいのではないか。頭の悪い自分をものさしにしているようで申し訳ないがそう思う。『たんぽぽのお酒』という題名のイメージ、レイ・ブラッドベリ知名度、SFの名著であるという評価の高さから手に取る子も多いだろう。その子たちがストーリーを追って読み始めると途中で挫折してしまうのではと危惧する。レベルが高過ぎはしないだろうか。この小説は素晴らしい小説であり、名著といわれるにふさわしいものだということ間違いがないがしかし、むしろ普通の子が名著と賞される本書を読んだにもかかわらずその良さがわからなかったという経験は、無限に拡がり心をワクワクさせてくれる小説の海にこぎ出す機会を逸してしまうことに繋がりはしないか。この小説を中学生向きの推薦図書に推した人が誰だか知らないが、その人は非情にレベルの高い小説を推すことで、自らの知的レベルの高さに鼻高々かもしれないが、けっして若い子たちのことを考えているとはいえないだろう。「中学生にもこの小説の良さがわかる子はたとえ少数であってもいる。その子たちにブラッドベリの素晴らしい世界に触れる機会を与えて何が悪い」との反論もあろう。しかし、すでにそのレベルにある子は、放っておいても本書や世に数多ある名著に親しむに違いないのだ。ちと言葉が過ぎたかもしれないが、これが私の率直な感想だ。