佐々陽太朗の日記

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『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド:著/倉骨彰:訳/草思社)

『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』(ジャレド・ダイアモンド:著/倉骨彰:訳/草思社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 なぜ人類は五つの大陸で異なる発展をとげたのか。分子生物学から言語学に至るまでの最新の知見を編み上げて人類史の壮大な謎に挑む。ピュリッツァー賞受賞作。
朝日新聞ゼロ年代の50冊〟2000年~2009年に刊行された全ての本の第1位のに選定された名著。

 

 

 

 現代社会の不均衡を生み出したものはなにか。世界の富や権力は、なぜ現在あるようなかたちで分配されてしまったのか。それを解き明かそうとするのが本書の趣旨だ。

 この種の問題を考えるとき、レイシズムが19世紀の頃ほどではないにせよ顔を覗かせることが多い。それはポリティカル・コレクトネスが叫ばれる現代において、さすがに堂々と主張されることはないが内々に根強く信奉されているイデオロギーであって、私を極めて不愉快な気分にさせる。しかし本書は私に読む気を起こさせた。その理由は著者ジャレド・ダイアモンド氏がこの謎を解き明かそうとしたときの公正で誠実であろうとする姿勢にある。ダイアモンド氏はこの謎を15世紀に世界を席巻したヨーロッパ系民族と西欧文明の側(つまりヨーロッパ系民族優位の視点)から偏って見るのではなく、ユーラシア大陸はもとより、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸それぞれの歴史展開を紀元前11,000年頃にまで遡って丹念に調査探索していく姿勢で解き明かそうとしている。

 ダイアモンド氏はこの謎について実に広汎に丁寧な論考を重ねている。私はその論旨を各部各章ごとに要約してみたところ、17,000文字を超える分量になってしまった。けっこうな時間をかけた労作なので記録としてブログにアップしておきたいところだが、流石にそれだけの分量を載せたのでは著作権法上の問題がありそうだ。そこで些か支離滅裂な構成になってしまうが、特に重要と思われるいくつかの章の要約を載せておきたい。

 

 

[第3章 スペイン人とインカ帝国の激突]

 ヨーロッパ人とアメリカ先住民の接触の最も劇的な瞬間は1532年11月16日はスペインの征服者ピサロとインカ皇帝アタワルパがペルー北方の高地カハマルカで相見えたときである。このときピサロが率いたのはわずか168人、一方アタワルパには8万人の兵士がいた。それにもかかわらず、会ったほんの数分後にアタワルパはピサロ側に捕らえられてしまった。そしてその日の戦闘でインカ側の兵士6~7千人が死に、さらに多くのインディオが大けがを負ったという。圧倒的な兵員差があってなおスペイン側の一方的な勝利に終わったのは、スペイン側が鉄製の剣と甲冑を備えており、馬と銃器を使って戦ったことによる。しかしそれよりも皇帝アタワルパほどの者がやすやすとスペイン側に捕らえられてしまったことが大きく、それはインカ側がスペイン側の軍事力や意図についてほとんど情報を持っていなかったことが失態に繋がった。インカ側に文字を読み書きする能力が無く、情報は口伝えによる僅かなものしかなかった。アタワルパはスペイン側を抑えるのに200人の兵士で足りると聞かされており、甚だしい誤認識によって致命的な失敗をした。一方、ピサロは明らかにコルテスの成功した戦略を学んでいた。

 また、緒戦はともかくその後の戦いにおいて圧倒的な人員差によるパワーバランスをスペイン側が覆し得たのは、スペイン人が持ち込んだ天然痘をはじめとする病原菌であった。先住民にはそれに対する免疫が全く無く、先住民の多くが死んでしまったのだ。

 ピサロを成功に導いた直接の要因は銃器、鉄製の武器、騎馬による軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的政治機構、文字を持っていたことである。

  

 

[第10章 大地の広がる方向と住民の運命]

 南北アメリカ大陸とアフリカ大陸は南北の緯度方向に伸び、ユーラシア大陸は東西の経度方向に伸びる。この特性が農作物や家畜の伝播のし易さし難さにつながる。経度は異なっても緯度を同じくする地域間では気候が似かよっているため、農作物や家畜のように自然由来のものの伝播は容易である。一方南北方向に広がる大陸にあっては、伝播の途中に気候が異なる地域があるため、それが困難である。またアメリカ大陸、アフリカ大陸ともに地形を含めた自然環境上の障壁もあった。

 ユーラシア大陸のみが東西に長い大陸であったことが、人類の歴史の運命に影響した。

 

 

[第11章 家畜がくれた死の贈り物]

 農耕民を狩猟採集民より有利な立場に立たせた理由のひとつは、食糧を生産・貯蔵することによって狩猟採集民よりも稠密な集団を形成できたことだった。また家畜を飼うことによって、人間と動物の距離が縮まり動物由来の感染症に罹り、それが流行することもあった。集団感染症である。集団感染症は当然のことながら、人口の稠密な大規模集団で惹き起こる。感染症の流行は一時的に多くの人命を奪ったが、結果としてその集団は免疫も獲得した。

 少数のヨーロッパ人が、圧倒的な数の先住民が暮らす南北アメリカ大陸やその他の地域に進出し、彼らに取って代わったのは、より優れた武器を持ち、より発達した技術や政治機構を持っていたこともあるが、家畜との長い同居から免疫を持つようになった病原菌を、進出した地域の先住民に図らずもプレゼントしてしまった結果でもある。

 

 

[第18章 旧世界と新世界の遭遇]

 ここ一万三〇〇〇年の人類史において、最大の人口の入れ替えは、旧世界と新世界の衝突によってもたらされたものである。なぜヨーロッパ人がアメリカ先住民の土地にやってきて征服者となったのか、なぜその逆ではなかったのか?

 まず、ユーラシア大陸南北アメリカ大陸は食糧生産の面で異なっていた。食糧生産は社会の人口規模と複雑さの決定要因であり、征服活動の結末がどうなるかの究極の要因のひとつである。この面での歴然としたちがいは、どのような大型動物が飼育されていたかであった。

 面積が広く、生態系が多様であったユーラシア大陸では、一三種の大型動物が肉や乳といった動物性タンパク質、毛皮、羊毛の供給源として飼育されていた。人や荷物を運ぶ手段といて活躍し、戦場においても軍用動物となった。鋤を牽いたり肥料を生み出して農業生産にも貢献していた。一方、南北アメリカ大陸においてはただ一種(ラマ/アルパカ=同一種)のみである。それは人を乗せることも、荷車や鋤を牽くこともなく、軍用に使えなかった。この途方もない違いは、主として南北アメリカ大陸の大型野生動物が更新世末期に絶滅した(あるいは撲滅された)ことに端を発する。もし絶滅していなければ、人類史は様相を呈したかもしれない。一五一九年にメキシコの海岸に上陸したコルテスとその部下は、アメリカ大陸原産の軍馬にまたがった数千人のアステカ兵士によって押し戻されてしまったかもしれない。アメリカ大陸特有の感染症にスペイン軍が全滅したかもしれない。アメリカ大陸がヨーロッパにコンキスタドールを派遣しヨーロッパ社会を征服したということもあり得たかもしれない。

 ユーラシアがアメリカを征服することになった直接の要因のうちで最も重要なものは、病原菌を巡る状況の違いであり、技術や、政治システムや、文字システムを巡る状況の違いであった。とりわけ病原菌を巡る状況は食糧生産の違いと最も直接的に結びついていた。ユーラシア大陸ではもともと動物のかかる感染症が変化して人にかかるようになった、天然痘、麻疹、インフルエンザ、ペスト、結核チフスコレラマラリアといった致死率の高い病気が、稠密な集団社会をたびたび襲った。そのためそれらの病気に対する免疫や遺伝性の抵抗力が自然に備わっていた。しかしコロンブスが発見する前のアメリカ大陸が発祥地であることが確かな集団感染症は非梅毒性トレポネマだけである。(梅毒の起源がアメリカ大陸であったかどうかについては、結核菌がアメリカ大陸に存在していたかどうかはハッキリしない) こうした病原菌を巡るユーラシア大陸アメリカ大陸の違いも家畜の有無がもたらした結果である。

 ユーラシア大陸では銅器、青銅器、そして鉄器が発達した。小銃や大砲も使用していた。家畜の馬はヨーロッパ人の側に圧倒的な殺傷力と輸送力をもたらした。航海技術においても大型帆船が開発され、六分儀、羅針盤、船尾舵によって外洋を航海できた。政治機構においてはいくつもの国家や帝国ができあがり、その多くは特定の宗教を国教と定め、政教の結びつきを利用して指導者階級の存在理由や他民族に対する征服戦争を正当化していた。またユーラシア大陸では多くの国家で文字を読み書きできる官僚がいたし、国家の中には一般大衆も文字の読み書きができる国家もあった。南北アメリカ大陸では、中央アメリカのごく一部の地域でエリートたちが文字を使っていただけであった。主要な発明や技術は南北アメリカ大陸がユーラシア大陸に遅れをとった。食糧生産開始の時期が遅かったこと、家畜化できたり栽培化できたりする動植物の種類がずっと限られていたこと、主要な発明や技術が拡散する障壁が多かった(南北方向に縦長でパナマあたりでぎゅっとくびれており、砂漠やジャングルによっても分断されていた)こと、人口の稠密な集団が規模的に小さかったことが影響している。

 ヨーロッパ人は自分たちの食糧生産技術やその他の技術、政治システムを有効に利用しアメリカ大陸への入植を成功させた。スペインには探検隊を支え、植民地を援助するだけの富と人口があった。スペイン人が最初に上陸した場所は食糧の生産に適した亜熱帯であった。そのため入植当初からアメリカ大陸原産の作物を育て農業をすることができた。牛や馬といったユーラシア産の家畜を用いることもできた。航海技術は、ちょうとイスラム、インド、中国・インドネシアの人びとが航海術、操船術、造船術をインド洋で発達させており、ヨーロッパ人はこれらの技術を百年がかりで取り入れて自分たちの遠洋航海術とした時期であった。ヨーロッパ人の征服は軍事力によるものもあったが、人口の大半はヨーロッパ人の持ち込んだ伝染病の犠牲になって死んでいったものだ。実際に先住民の何パーセントが減少したかについては諸説あるが、かなりの割合でアメリカ先住民の人口は減少してしまった。そのかわりに世界中の大陸からやってきたことによって、現在では南北アメリカ大陸には一四九二年当時の約10倍の人びとが住んでいる。

 

 

[エピローグ 科学としての人類史]

 人類の長い歴史が大陸ごとに異なるのは、それぞれの大陸に居住した人びとが生まれつき異なっていたからではなく、それぞれの大陸ごとに環境が異なっていたからである。

 人間社会の展開に影響を与えうる環境上の要因は大陸によって大きく異なっており、大きくは以下の四つに集約できる。まず第一に、栽培化や家畜化の候補となり得る動植物種の分布状況が大陸によって異なっていた。このことが重要なのは、食糧生産が余剰作物の蓄積を可能にしたからであり、余剰作物の蓄積が非生産者階級の専門職を養うゆとりを生み出したからであり、人口の稠密な大規模集団の形成を可能にしたからである。第二に大陸の生態環境や地形上の特徴が各大陸に伝播や拡散の速度を異ならしめたこと。もっとも面積が大きく東西方向に広いユーラシア大陸が緯度の違いによる環境差がないため、作物や家畜の育成伝播に有利であったし、逆に南北方向に緯度をまたいで広がるアメリカ大陸やアフリカ大陸は地形や生態環境上の障壁が大きかったために不利に働いた。またニューギニアは急峻な山岳地帯が中央部を貫き、地形の起伏が激しいことが伝播や拡散を難しいものにし、政治的および言語的統一の妨げとなった。第三に大陸間の伝播の容易さがそれぞれに違っていたこと。四つめの要因はそれぞれの大陸の大きさや総人口の違いである。面積の大きな大陸や人口の多い大陸では、何かを発明する人間の数が相対的に多く、競合する社会の数も相対的に多い。利用可能な技術も相対的に多く、技術の受け容れをうながる社会的圧力もそれだけ高い。新しい技術を取り入れなければ競合する社会に負けてしまうからである。

 もし1450年以前生きた歴史学者がその後の人類史の展開を予想したとしたら、ヨーロッパ社会が世界の主導権を握ることなどまずあり得ないと断言しただろう。1450年頃に技術において世界をリードしていたのは、肥沃三日月地帯と中国であって、ヨーロッパはそれら地域の進んだ技術を受け容れる側にあった。肥沃三日月地帯と中国は、後発組のヨーロッパの数千年先をいっていた。それなのになぜその2地域は圧倒的なリードを徐々に失っていったのか。まず肥沃三日月地帯についてはかつては肥沃な土地であったところが、砂漠かそれに近い乾燥地か草原地帯になって、土壌の風化や塩害が進んだ土地になってしまったからである。降雨量が少ないこの地域にあって、森林が農地を広げるために、あるいは建設用、燃料用に伐採されたまま再生しなかったからだ。次に中国については、はじめの一歩は早く踏み出していたし、様々な有利な点をそなえていた。中国で誕生した技術はたくさんあるし、政治制度の発達も世界一進んでいた。航海技術にも優れていた。中国は一五世紀初頭には大船団をインド洋の先のアフリカ大陸東岸にまで送り出していた。この船団は数百隻で編成されており、中には400フィートにも達する船も含まれていた。コロンブスの何十年も前に海洋に出ていたのである。それなのに世界を植民地化したのはヨーロッパであった。何故か? その謎を解く鍵は船団の中止にある。中国宮廷内の権力闘争、それは宦官派とその敵対派の抗争であったが、船団派遣を推進していた宦官派が敗れたために船団の派遣は取りやめになり、外洋航海も禁じられ、造船所は解体された。皮肉なことに中国は政治的に発達していたので国全体が統一されていた。故にただ一度の一時的な決定のために機会を逸してしまったといえる。中国の宮廷が禁じたのは大航海だけではなかった。水力紡績機の開発も禁じて、十四世紀にはじまりかけた産業革命を後退させている。世界の先端を行っていた時計技術も葬り去っている。政治的な統一が悪影響し、一人の支配者の決定が全国の技術革新の流れを再三再四止めてしまった。ヨーロッパはこれとは逆に、分裂状態で何十、何百という国家がそれぞれに独自の技術を競い合った。己の国家が他国に征服されたり経済的に取り残されないために、新しい技術を受け容れざるを得なかった。

 その地域の人びとが大きな文化的特徴を持つにいたる過程は、謂わば歴史自身が手にしているワイルドカードである。最初の状態の小さな差異が時間とともに大きく変化し予測不能な振る舞いをする「カオス理論」がこれを示している。個人の特質もまた歴史のワイルドカードである。人類の歴史に多大な影響を与えた人間はたくさんいる。ヒトラーアレキサンダー大王、アウグストゥス、釈迦、キリスト、レーニン、ルター、ムハンマド・・・。歴史学は実験的に操作して再現試験を行うことができない分野であり、構成要素が非常に多岐にわたる複雑な分野である。結果から溯る説明は可能であっても、先験的な説明はむずかしい。しかしそれでも私(著者)は人間科学としての歴史研究が、何が現代社会を形作り、何が未来を形作るかを教えてくれることだろうと考えている。

 

 

「歴史に ”if” はない」とはよく言われることだ。タイムマシンを使って過去に行き、歴史を変えてしまうという試みはSF小説ではしばしばみられる。本書を読んで強く思った「もしも」は、「もしも中国(明)において、十五世紀初頭の”鄭和の西洋下り”政策が継続されていたなら」一六世紀以降の世界の覇権はヨーロッパではなく中国が握っていたのだろうか。そして中国はやはり世界を侵略し植民地化を図ったのだろうか。二十一世紀の世界はどんな姿になっていたのだろうということだ。だれかそんな小説を書いてくれないものだろうか。きっとピエール・ブールによる小説『猿の惑星』を超える作品になるに違いないだろうと思う。

 最後にヨーロッパ諸国の世界各地征服、植民地化について、私の考えを記しておきたい。ただ、ここに書くことはダイアモンド氏の論旨とは全く関係がないことを念のため断っておく。

 スペイン、ポルトガル、その他ヨーロッパ諸国が15世紀から16世紀にかけての大航海時代に新たな交易、キリスト教布教、さらには領土拡大を企図して世界各地へ航海したという行為をヨーロッパ諸国では今も勇敢な偉業と称えているようだが、私に言わせれば布教という名の侵略と略奪、先住民の大虐殺以外の何ものでもない。先住民のことを人間とも認めず、先住民の暮らす土地を勝手に自分たちの領土だと宣言してしまうような行為を英雄視するのは如何なものか。ずいぶん過去のことで、当時の価値観は今とは違っていた、もちろんそうだろう。しかしそうであっても、今となっては今の価値観に照らして、当時は間違っていた、酷い行為だったとの反省が当事者諸国やキリスト教関係者から聞こえてこないのは如何なものか。

 2019年3月にメキシコ大統領が1519年から約300年続いたスペイン統治時代の「暴虐」に対する謝罪をスペイン政府とローマ法王に求めたというニュースが流れたが、スペイン政府は即座に拒絶し、バチカンは公式見解を示していないと聞く。500年の前のことを今の価値観で裁くことはできないことは理解できる。謝罪までは必要無いかもしれない。しかし、今の価値観に照らして当時の行為は間違っていたとの見解ぐらいは示しても良さそうなものだし、少なくとも英雄視するようなことはやめるべきだろう。最も許せないのは「キリスト教の恩寵をもたらす」などと大義をうたい、「神の御名のもと」法衣と剣による侵略と略奪、そして殺戮を行ったこと。なんとおぞましい行為か。

 私には60年あまり生きてきて、人の行為についてひとつの確信がある。「口で言っていることは建前で、やっていることが本音」というのがそれである。人は後ろめたい行為をさまざまな理屈をつけて正当化する。口で言っていることに惑わされず、虚心をもってその行為だけをみれば、その人の本音が見えてくる。そうした視点でヨーロッパの覇権を観れば、そこにあるのは許しがたいレイシズムであり、宗教の持つ欺瞞だ。そしてそれは今も脈々と息づく悪である。近代になってもニューギニアやアマゾンなどの地に宣教師が入っていく。宣教師の後に教師、医者、官僚、兵士などが続き、政治と宗教は手に手を取って先住民の土地に浸透していく。未開の民を啓蒙してやろうとでもいうのか。キリスト教国とキリスト教徒の価値観の押しつけと上から目線に反吐が出る思いだ。政府と宗教が結びつき、武力や科学技術の圧倒的な力を伴ってよその土地に入り込む。そうした行為を宗教が正当化するという欺瞞に反吐が出るのだ。いずれにしても人間は自分の側からしかものを見ないとことん勝手な生き物だ。そのことだけは確かだろう。