佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『殉教者』(加賀乙彦:著・講談社文庫)

2021/09/30

『殉教者』(加賀乙彦:著・講談社文庫)を読んだ。私が参加している月イチの読書会「四金会」の今月の課題図書である。

 まずは出版社の紹介文を引く。

キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる江戸時代初期。信仰と志を胸に、ペトロ岐部カスイは密かに長崎の港を後にした。目指すは、聖地エルサレム。時に水夫として海を越え、時に駱駝曳きとして砂漠を進む。五年かけて辿り着いたローマで司祭となると、岐部は再び日本へと旅立ち―。構想三十年、魂の傑作長編!

信じるもののため、不可能を超えた日本人がいた――。苛烈な信仰に生きた男の生涯が荒廃した現代を照らす、著者渾身の書下ろし長篇。

 

 

 私はキリスト教を信じていない。では他に信じる宗教を持つかと言えば、それもない。キリスト教に限らず、仏教も、イスラム教も、ユダヤ教も、ヒンズー教も、天理教オウム真理教その他諸々の新興宗教を含めて宗教全般を信じていない。忌避していると言っても良いだろう。要は宗教嫌いなのだ。
 もちろんキリスト教信者に教義に対する宗教的思索(哲学)から高みに到達された立派な方がいらっしゃることは知っているし、他人の信仰自体を否定するものではない。
 なぜ私が宗教嫌いなのか? 自分なりに考えてみると、まずは私の少年時代のことに思い至る。私は生意気にも科学を信奉する少年であった。世の中の森羅万象、不思議な事々が科学によって解き明かされていくことに興味津々であったのだ。そんな年頃に触れた宗教は、仏教にせよ、まじないや祈祷によって体の悪いところを直したり、幸運に恵まれるといった現世利益を目的とした新興宗教のたぐいにせよ、すべてが胡散臭く見えた。科学が(それがまだまだ解き明かせない謎を多く残すにせよ)いろいろな謎について、証拠に基づいて論理的に解明してくれるのに対し、宗教が言っていることはとても現実に即したものとは思えず、ひと言で云えば嘘っぱちとしか見えなかったのである。
 もう一つの理由は、学校で歴史を学んでいく中で、ありとあらゆる宗教が、異教徒との対立を生み、それが高じて殺し合い、戦争に繋がっていること。時の権力、政治と手を結んで、持ちつ持たれつで信者拡大を企て、他所の土地を侵略していった歴史を知ったからである。最も許せないのは無知蒙昧の徒を啓蒙してやるのだと、自身の行為を正当化しているところだ。この傾向は特にキリスト教に強い。そしてそれは現代に至っても無反省に続いているように思える。その意味で秀吉のバテレン追放令、家康の禁教令は、結果としてキリスト教国の覇権主義と植民地支配を排除し、現在の日本を在らしめたと歴史的に俯瞰することができるのではないか。もちろんキリシタンを弾圧するうえで執られた非人道的行為は不幸な事柄であったとは思うが。

 長々と私の宗教嫌いを書いてきたが、そのような私が本書を読んでもあまり胸に迫るものはない。むしろペトロ岐部カスイは聖地エルサレムへの旅の途中で、エスパニア人によるフィリピン諸島植民地化など、当時の世界情勢を目の当たりにしながら己が信教に何らの疑いを挟むことなく、ひいてはローマで司祭にまでなったことにいらだちを感じる。この盲信ぶりが宗教の怖ろしいところであり、キリスト教に限らずあらゆる宗教が内包する危険性だと改めて確信するのである。

 おそらく私は本書を読書会の課題図書に取り上げられなければ読まなかったであろう。狭量を避け、自分とは異質の考えをも見聞するという意味で良い勉強になった。