佐々陽太朗の日記

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『モモ 時間どろぼう と ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語』(ミヒャエル・エンデ:著/岩波書店)

2022/02/08

『モモ 時間どろぼう と ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語』(ミヒャエル・エンデ:著/岩波書店)を読みました。

 児童書だが読むきっかけになったのは昨年末に読んだ『本バスめぐりん。』(大崎梢:著/創元推理文庫)の中で、お母さんを癌で亡くした少女が移動図書館で何度も繰り返し借りていた本がこれだったということです。いったいどんな本なのだろうと興味を引かれたのです。

 まずは出版社の紹介文を引きます。

時間どろぼうを追って、不思議な少女モモといっしょに時間の国へ。

「時間」の真の意味を問う、ドイツの作家ミヒャエル・エンデの代表作「モモ」。

洒落た蔵本でおくる、大人気ファンタジーの愛蔵版。

 

 

 

 町はずれの円形劇場の廃墟に住みついたみなしごの少女・モモが主人公です。モモはおとなしい女の子ですが、人の話を聴く能力に長けています。モモに話を聴いてもらっていると、不幸や悩みを抱えている人も不思議と迷いが消え、自分の意志がはっきりして希望と明るさがわいてきます。たとえばこんなふうに。

・・・・・・たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意味もない、おれはなん千万もの人間の中のケチな一人で、死んだところでこわれたつぼとおんなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きていようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。するとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかってくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世の中でたいせつな存在なんだ。・・・・・・

                          (本書P16より)

 あれ? これは先日読んだフランクルの心理学(「人生の意味」を求める問いに対するコペルニクス的転回)ではないかとはたと気づく。「私には生きる意味なんてない」「私はいてもいなくても同じ」といった人生の意味を求める問いに、フランクルは次のようなコペルニクス的転回を生じさせたという例のロゴセラピー(実存分析)です。

人生が人間へ問いを発してきている。したがって、人間は、人生の意味を問い求める必要はないのである。人間はむしろ、人生から問い求められている者なのであって、人生に答えなくてはならない。人生に責任を持って答えなければならない。

「自分の人生には意味がある。なすべきこと、充たすべき意味が与えられている。」と実感して生きることの大切さ。その考えを物語の冒頭に織り込んでくるとは・・・児童書と思えないほど深い。これは思いのほか手強いぞ、児童書に打ち負かされるのではないかとややひるみつつ読んだ。

 あらすじは次のようなものです。(以下ネタバレ注意)

 人の話をよく聴くことに長けたモモのまわりには自然と人が集まり、人と人の絆が生まれ、皆が生きていくうえで大切なものをしっかりと見失わずに生きているようでした。ところが町の様子が少しずつ変わってきます。「時間貯蓄銀行」から来たという灰色の男たちが現われてから、何かが狂い始めたのです。灰色の男たちの目的は、人の時間を盗むこと。灰色の男たちは時間のむだ遣いをやめるべきだと人びとに吹きこみます。例えば年老いたお母さんとおしゃべりする時間、週一回映画館に行く時間、行きつけの居酒屋で友達と会う時間、本を読む時間、身体の不自由な隣人の様子を見に行く時間、そうした時間はむだですね。それを節約して時間銀行に預け引き出さないでおけば、やがて預けた時間は利子が付いて何倍にもなりますよと。灰色の男たちのいうとおりにした人々はお金を余計に稼ぐようになり、いろいろなものを手に入れられるようになります。でも彼らはいつもいらいらし、不機嫌でくたびれています。それに少しも楽しくありません。時間をケチケチすることで、本当は別の何かをケチケチしていることに気づかず、金をいくら稼いでもいい服を着ても心は少しも晴れず、満たされず、かえって貧しい気分になるのです。節約した時間は時間泥棒に盗まれていたのです。何かがおかしいと気づいたモモは、人びとにそのことを伝えようとします。危険を感じた灰色の男たちはモモを阻止しようとしますが、モモは勇気を持って立ち向かい人びとの時間を取り戻します。

 そんなお話ですが、モモのことを危険とみなした灰色の男がモモの考えを改めさせようと説得する場面があります。その時に灰色の男がモモに語ったことがこの物語の肝だと私は考えます。それは要約すると次のようなことです。

「人生で大事なことはひとつしかない。それは何かに成功すること、ひとかどの者になること、たくさんの物を手に入れることだ。他の人より成功し、偉くなり、金持ちになった人間には、そのほかのもの――友情だの、愛だの、名誉だの、そんなものは何もかもひとりでに集まってくるものだ。君は時間を節約しようとする努力をじゃましている。君の友だちが成功に近づき、金をもうけ、偉くなることをじゃましようとしている」

「何かに成功すること、ひとかどの者になること、たくさんの物を手に入れること」これらは謂わば自己実現の目標です。立派な目標を持ち、その目標を達成すること、それは確かに立派なことです。しかし私はここでもう一度先日読んだフランクルの考えに思い至ります。

 人生の意味は何か。その問いに対してふつうは「自分の夢を実現する。立派な目標を持ち、目標を達成していくこと」だと考えます。しかし人間の欲望には際限がない。ある地位を手に入れたらもっと高い地位が欲しくなる。お金やモノをたくさん手に入れたらもっともっと欲しくなる。欲望の虜ではけっして幸福になれない。なぜなら欲望には切りがないからそれに駆り立てられている人は、どこまでいっても心の底から満たされることがない。絶えず「足りない」「満たされない」という欠乏感を永遠に抱くことになる。この「幸福は、それを求めれば求めるほど、私たちの手からスルリと逃げ去ってしまう」という逆説的な真実。有名な「幸福のパラドックス」です。先に書いたようにフランクルはこの人生の罠から脱するためにはコペルニクス的転換が必要だと説きます。すなわち「私のしたいこと、やりたいことをするのが人生だ」という人生観から、「この人生は私に何を求めているのだろうか」、「何があるいは誰が私をを必要としているか?」を問い「私のなすべきことをしていくのが人生だ」という人生観へと転換することが永遠の欠乏感から脱け出して、「私はなすべきことをしている」という感覚に満たされて生きていく道だと説くのです。

 この「幸福のパラドックス」はエンデが本書に著した時間を節約し効率化すればするほど豊かな時間を失っていくという寓話によく似ています。

 もう一つ、モモの大切な友だちである道路掃除夫ベッポの話を引いてここに記しておきましょう。

 ベッポは毎朝、夜の明けないうちに、古ぼけてキーキーと鳴る自転車を走らせて町に行き、大きなビルディングの中庭で掃除夫なかまといっしょになります。そこでほうきと手押し車をもらい、どこの道路を掃除するかの指示をうけるのです。

 ベッポは、町がまだねむっている夜明けまえのこの時間がすきでした。それに自分の仕事が気に入っていて、ていねいにやりました。とてもだいじな仕事だと自覚していたのです。

・・・・・(中略)・・・・・

「なあ、モモ。とっても長い道路を受けもつことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃだめなんだ。」

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうおやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。これがだいじなんだ。」

 道路掃除夫のベッポは高い地位にある人や有名人からすれば取るに足りない者でしょう。また道路掃除なんてつまらない仕事だと思われるかもしれません。でもベッポは自分のこと、自分の仕事のことをけっしてそんな風に考えません。自分の仕事が気に入っていて、ていねいにやります。自分は大事な仕事をしているとも思っています。そう、彼は「他の人より成功し、偉くなり、金持ちにならなければ、自分の人生には何の意味もない」などとは考えません。「自分はなすべきことをしている」と感じ、深い幸せを感じているのです。

 ミヒャエル・エンデナチスが台頭し始めた1929年のドイツに生まれています。ひょっとしたらフランクルの心理学に影響を受けて本書を書いたのかもしれません。知らんけど。