佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『静かな雨』(宮下奈都:著/文春文庫)

2022/02/14

『静かな雨』(宮下奈都:著/文春文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 行助は美味しいたいやき屋を一人で経営するこよみと出会い、親しくなる。ある朝こよみは交通事故の巻き添えになり、三ヵ月後意識を取り戻すと新しい記憶を留めておけなくなっていた。忘れても忘れても、二人の中には何かが育ち、二つの世界は少しずつ重なりゆく。文學界新人賞佳作に選ばれた瑞々しいデビュー作。

 会社が潰れた日、パチンコ屋の裏の駐車場で、やたらと美味しいたいやき屋を見つけた行助。そこは、こよみさんという、まっすぐな目をした可愛い女の子が一人で経営するたいやき屋だった。行助は新たに大学の研究室の助手の働き口を見つけ、そのたいやき屋に通ううちにこよみさんと親しくなり、デートを繰り返すようになる。だがある朝、こよみさんは交通事故の巻き添えで、意識不明になってしまう。家族のいないこよみさんのために、行助は毎日病院に通う。三月と三日経った日、奇跡的に意識を取り戻したこよみさんだが、事故の後遺症の高次脳機能障害で、短期間しか新しい記憶を留めておけないようになっていた。二人は一緒に住むようになるが、こよみさんは、その日の出来事を覚えていられない。だが、脳に記憶が刻まれなくなっても、日々が何も残していかないわけではない。忘れても忘れても、二人の中には何かが育ち、ふたつの世界は少しずつ重なっていく。それで、ふたりは十分だったーー。

 

 

 本書には宮下奈都氏のデビュー作にして第98回文學界新人賞佳作に入選した表題作『静かな雨』に加えて『日をつなぐ』という中編が併録されている。

 まずは『静かな雨』について書きます。

 あらすじは上に引いた紹介文のとおりです。

 交通事故によって受けた障害で新しい記憶を留めておけないこよみさん。それでもこよみさんを深く愛していた行助は一緒に住むことを選択する。それはイイ。いっしょに暮らしていけるか、いつまでも愛し続けることが出来るか、心配事はいくらでもあるが、けっしてあり得ない選択ではない。でも二人の日々の積み重ねがこよみさんの中には残っていかないということの虚無感。行助自身には大切な記憶として残っているものが、こよみさんの中に残っていないということが突きつけられた時、行助の心の中には埋めようのない空白があったに違いない。これほどの切なさがあるだろうか。あるいは孤独が。

 こよみさんと暮らすことに覚悟を決めていたはずの行助だが、ある日、こよみさんに辛くあたってしまう場面があります。それは記憶を留めないこよみさんに対する腹立ちではなく、それを辛く思ってしまう自分に対するいらだち、怒りであっただろうと思います。

 終盤、タイトルとなった静かな雨が降る場面が印象的です。それは薄明かりが射しはじめた朝方のシーンです。窓の外は音もなく雨が降っています。前夜は満月でこよみさんがつくった団子を食べながら二人で月見をしました。こよみさんは窓のほうを向いて横たわっており、目を覚ました行助はこよみさんの背中を見ています。こよみさんが窓を向いたまま「月が明るいのに雨が降っている」とつぶやきます。行助はこよみさんが泣いているのに気づきます。こよみさんは昨夜の満月を覚えているのです。一睡もしていなかったのかもしれません。眠れば消えてしまう月の光です。その残像の中に細い細い雨が静かに降っている。その雨とこよみさんの流す涙がシンクロする美しい場面です。

 事故のあと、こよみさんの世界、行助の世界、二人の世界は同じではありません。ほんの少しの重なりしかありません。お互いに惹かれ合った過去の想い出と、今このとき刹那だけを共有して生きていく二人。切なくも美しい小説です。

 

 続いて『日をつなぐ』について書きます。

 十四歳の時、真名は同級生の水沢修一郎と出会う。気になる存在ではあったが、それ以上のことはなかった。同じ高校に進むことになり、真名は内心うれしかった。高校では一度だけ同じクラスになり、勉強を教えてもらったり、一緒に帰ったりする間柄になり、ゆっくりではあるが親密になっていく。高校卒業後、真名は地元の信用金庫に就職、修一郎は京都の大学に進学する。たまにしか会えないが二人のつき合いは続いた。修一郎が就職すると二人の距離はますます遠くなった。修一郎の赴任先が秋田県だったのである。ほとんど会うことがかなわない中、真名は意を決して仕事を辞め、修一郎と結婚して秋田に住む。真名はまもなく妊娠し、娘を出産します。まわりに知人もなく一人子育てをする中で真名は少しずつ消耗していく。修一郎も仕事が忙しく、帰ってくるのはいつも夜遅く。家に二人がいる短い時間も、真名は子育てに精一杯で二人がじっくり向き合う時間はありません。

 ある日、真名は仕事に出かけようとする修一郎に「今日は早く帰ってきて」と声をかける。意外にも修一郎は「わかった」と言い、「俺も、真名に話したいことがある」と言う。真名は修一郎と一緒にご飯が食べたい、そんなことを伝えたいと思っていた。そして、以前、修一郎が食べたいと言っていた豆のスープを作って待っていようとする。

 修一郎の話したいことが何かはあかされないまま物語は終わる。そこは読者がどう思うかにかかっている。私にはなんとなくざわざわした胸騒ぎが残った。小説に書かれなかったその先に、そうあって欲しくはない未来が見える気がするのだ。それもまたよくある人生である。私は何度か読み返し、吉兆を捜してみた。それでも私の不安は消えなかった。かなり読後の気分を引きずってしまった。それはこれがよい小説であることの証しだろう。