佐々陽太朗の日記

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『始まっている未来 新しい経済学は可能か』(宇沢弘文、内橋克人:著/岩波書店)

2022/02/21

『始まっている未来 新しい経済学は可能か』(宇沢弘文内橋克人:著/岩波書店)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

世界と日本に現れている未曾有の経済危機の諸相を読み解きながら、パックス・アメリカーナ市場原理主義で串刺しされた特殊な時代の終焉と、すでに確かな足取りで始まっている新しい時代への展望を語り合う。深い洞察と倫理観に裏付けられた鋭い論述は、「失われた二〇年」を通じて「改革者」を名乗った学究者たちの正体をも遠慮なく暴き出し、「社会的共通資本」を基軸概念とする宇沢経済学が「新しい経済学は可能か」という問いへのもっとも力強い「解」であることを明らかにする。

宇沢/弘文
1928年、鳥取県に生まれる。1951年東京大学理学部数学科卒業。専攻は経済学。現在、日本学士院会員、東京大学名誉教授。1997年文化勲章受章。2009年、地球環境問題の解決に向けて貢献した個人や団体に贈られる「ブループラネット賞」を受賞

内橋/克人
1932年、神戸市に生まれる。1957年神戸商科大学卒業。神戸新聞記者を経て、1967年から経済評論家。2006年宮沢賢治イーハトーブ賞、2009年NHK放送文化賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 

 

「資本主義の弊害と社会主義の幻想」、社会主義が新しい理念として脚光を浴びた時代、多くの人はその未来に夢を見た。しかしそれは単なる幻想に過ぎなかったというのが歴史的事実である。経済的貧困と社会的不公正は解決されることなく、社会のすべてが調和した人間的な社会が実現されるどころか、逆に人びとの自由は失われ尊厳は踏みにじられた。では社会主義から資本主義への移行によって人びとが人間らしく幸せに暮らせる社会が実現するのか。否、「社会主義の弊害と資本主義の幻想」がその答えである。現下の世界情勢は、フリードマンの説いた「人間の自由と公正は自由な市場によって実現する」という仮説が単なる幻想に過ぎなかったことの証明であろう。グローバル化の進展と新自由主義市場原理主義が相俟って、時として市場はこれまで経験したことのない危機を孕む。そしてそれはコントロール不能なだけに恐ろしい。また富の不均衡も大きな問題と思える。アメリカのように平均所得の中位以下の個人所得を合計したものに相当する富を、僅か数百人の超富裕層が独り占めしているような状態はどう見てもあるべき健全な経済ではないだろう。

「市場をコントロールしていく」これが宇沢氏、内橋氏の主張だろう。それは宇沢氏の言う「マーケット・メカニズムを有効に使う」ということであって、市場にまかせさえすれば良いということではない。市場が主語ではなく、あくまで人間が主語であるという方向性である。それであってこそ経済学は意味を持つ。宇沢氏は新自由主義者市場原理主義者が跋扈するアメリカにおいて、それに異を唱え続けた方である。宇沢氏は社会のすべてが調和した人間的な社会を実現するに欠かせないものがあるとし、それを社会的共通資本と呼んだ。それを具体的に挙げれば、例えば、大気、森林、河川、水、土壌などの自然環境、道路、交通機関上下水道、電力・ガスなどの社会的インフラストラクチャー、教育、医療、司法、金融制度などの制度資本である。宇沢氏はこれら社会的共通資本を国や地域で守っていき、市場原理主義に乗せて利益をむさぼる対象にしないことで、人々がより生き生きと暮らす社会を実現したいとする。それこそが経済学の果たす役割だと考えたのだ。一方、内橋氏は小泉構造改革がもてはやされ、規制緩和、自由化の流れに異を唱える者は「抵抗勢力、古い考えの持ち主」と政界、経済界のみならず、マスコミはじめ言論界でもバッシングされた時代にあって、敢然と異を唱え、市場原理主義の胡散臭さ、危うさを訴え続けられたと記憶している。

 少し私の経験を交えて書いてみたい。2年前まで私は産業界に身を置いていた。宇沢氏が社会的共通資本のひとつに数えた交通機関(バス事業)を運営する会社に勤めていたのである。橋本龍太郎内閣当時から始まっていた議論だと記憶するが、政府主導でバス事業への参入規制が撤廃されたのが2000年頃のことであった。その過程にあって、事業者側からは規制撤廃・緩和の危険性(特に悪質な事業者による大事故の危険性)を盛んに訴えたが、「消費者は価格だけでなく安全な事業者を選ぶ、もう政府は事業者を守れないからお客様に(選んでもらうことによって)守ってもらえ」ということであった。結果は事業者が予測したとおりであった。相次ぐ貸切バス、ツアーバスの大事故とそれに伴う多数の死傷者が発生したのである。新規参入事業者が一気に増え、消費者は少しでも安い事業者に雪崩を打つなか、過当競争に陥り、コスト競争のなれの果てが最終的にバス運転士をはじめとした労働者の労働条件切り下げ、過重労働に繋がっていった。規制緩和のすべてが誤りとは言わない。ただそれを進める上で、交通機関が社会的共通資本であるという視点がきちんと入っていれば、あるいは悲劇は起こらずに済んだのではないかと思う。少なくとも自由な市場にさえまかせていれば、すべて最適な状態に落ち着くのだという考えが間違っていたことだけは確かだろう。私はといえば、内橋氏の出身大学で経済学を学んだが、規制緩和構造改革がもてはやされる世にあって、その流れもやむなしと思っていた。というのも、私が大学に学んだ1980年前後はフリードマンの著した『選択の自由』がベストセラーになり、おバカな私などはお気楽にもそこに書かれていることに疑いを挟まなかったのである。今思い返してもまことに恥ずかしい。汗顔の至りとはこのことだ。この当時、宇沢弘文氏の「う」の字も知らなかった私はとんでもない呆気者であった。

 アメリカにおいてフリードマン市場原理主義が大きな潮流をつくりだし、時を少しおいて日本の追従の結果、今の世の中はけっして良くなっていないし、それどころかかえって悪くなっていく兆しがあることに多くの人が気づいている。そうした時代の息吹を内橋氏は「始まっている未来」と表現する。

 ただ、ここで私はもう一度立ち止まって考える。果たして市場原理主義はまったく間違っているのだろうかと。取り違えてならないのは宇沢氏も内橋氏もけっして「自由で公正な市場」を否定してはいないことだろう。世の中には市場原理を導入してはならない分野があること、あるいは行きすぎた市場原理依存は時に劇毒となり得ることを言っているのだとわきまえねばならないのだろう。また先に書いた「ごく一部の富裕層が富のほとんどを独占する社会」が間違っているとするのは、それがやっかみであってはならない。理屈の上では成功者が莫大な利を得ることはけっして不正ではない。また私は「一人でも泣いている者の無いように」などと絵空事を唱える気も無い。問題は貧困層が存在することではなく、多くの人が今の世界の将来に希望を見いだせないでいることではないか。富裕層云々ではなく、貧困層をどう救済していくか、状況を変える機会が与えられる世をつくって行けるかどうかであろう。

 人間は全知全能ではない。かといって全知全能だという神も存在しない。世の中は振り子のように右に行き過ぎれば左により戻し、左に行きすぎれば右により戻すものだ。要は世の中には「程」というものがあるということか。というなんとも冴えない結論に達した私はなんと凡庸であることか。