佐々陽太朗の日記

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『両性具有の美』(白洲正子:著/新潮文庫)

2022/03/25

『両性具有の美』(白洲正子:著/新潮文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

光源氏西行世阿弥南方熊楠。歴史に名を残す天性の芸術家たちが結んだ「男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたち」とは―。薩摩隼人の血を享け、女性でありながら男性性を併せ持ち、小林秀雄青山二郎ら当代一流の男たちとの交流に生きた白洲正子。その性差を超越したまなざしが、日本文化を遡り、愛と芸術に身を捧げた「魂の先達」と交歓する、白洲エッセイの白眉。

 

 

 ”両性具有”はあまり聞き慣れない言葉だ。平凡社の百科事典マイペディアによると次のように解説されている。

女性と男性を兼備していること。厳密にはアンドロギュノスとヘルマフロディトス半陰陽)があり,前者がジェンダー(文化的特性),後者がセックス(性器)の兼備を指すが,両者は混同して用いられることが多い。プラトンの《饗宴》をはじめとして,古くから宗教・哲学・文学・心理学・医学などの文献に登場する。とくにフェミニズムレズビアン・ゲイ理論では,性役割の置き直し,あるいは性役割からの解放のイメージとして使われる。たとえば19世紀には,男性の同性愛者の体には女性の魂,女性の同性愛者の体には男性の魂が宿っていると考えられていた。ウルフの《自分だけの部屋》では,理想の芸術家は両性具有であるとされている。これらのイメージは1970年代に再び強い支持を得,1990年代に入ってからは,異装という形などでも注目されている。

 

 ”両性具有”とは言いながら、本書に女性の同性愛的視点はほとんど無い。それは日本文化を”両性具有”の視点から紐解いたとき自ずと男性目線になったものか、あるいは白洲正子氏の視点が女性でありながら男性のものなのかは判らない。おそらくその両方なのだろう。

 白洲氏は男色の位置づけを武士や宗教家、あるいは芸能家などの社会におけるイニシエーション的な儀式と観ているように思える。そうしてみるとそのイニシエーションを受けた者に新たな感性の眼を開かせ、通常とは違った世界に誘うのかもしれない。しかし個人的な感想を言わせてもらえば、そのような儀式を通過しなければ獲得できないものなどまっぴらごめんである。勘弁して欲しい。

 つい最近、白洲氏の『私の百人一首』を読んで、私の中で西行法師について一つの疑問が頭をもたげてきた。「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」をいう恋歌を詠んでいる。調べてみると西行はその他にも数々の恋歌を詠んでいる。仏門に入った西行が何故、というわけだ。本書を読んでその疑問に一つの答えを得た。なるほど、西行の思ひ人はそういうことだったのか。