佐々陽太朗の日記

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『非色』(有吉佐和子:著/河出文庫)

『非色』(有吉佐和子:著/河出文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

色に非ず―。終戦直後黒人兵と結婚し、幼い子を連れニューヨークに渡った笑子だが、待っていたのは貧民街ハアレムでの半地下生活だった。人種差別と偏見にあいながらも、「差別とは何か?」を問い続け、逞しく生き方を模索する。一九六四年、著者がニューヨーク留学後にアメリカの人種問題を内面から描いた渾身の傑作長編。

待望の名著復刊!戦後黒人兵と結婚し、幼い子を連れNYに渡った笑子。人種差別と偏見にあいながらも、逞しく生き方を模索する。アメリカの人種問題と人権を描き切った渾身の感動傑作!

 

 

 本書は私が参加している月イチの読書会「四金会」の今月の課題書となる。さもなくば、本書を読むことはなかっただろう。というのも、本書は「差別」を扱っており、それが私を躊躇わせるのだ。何故か。別に私自身が痛烈な差別を受け、それがトラウマになっているわけではない。私は生粋のモンゴロイドである。色白だとよく言われるが、やはり肌の色は黄色い。だから人種差別については差別される側である。それ故、いわゆるカラードに対する差別には怒りを感じるし、こうしたテーマには興味も自分なりの考えもある。その意味でこうした小説にも興味はある。もちろん差別がいけないことであるという良識ぐらいあるつもりだ。では私のなかに差別意識がないかといえば、そこは些か心許ない。いや、ハッキリと差別意識に近い鼻持ちならない面が私にはある。しかしそれを正面からは認めたくないのである。出来れば向き合いたくないテーマなのだ。こうした本を読み、突き詰めていくと否応なしに自分にも同じような醜い差別意識があることを認めざるを得なくなる。自分が悪い子だと認めること。それが辛いのだ。

 本書には太平洋戦争後、当時進駐していたアメリカ兵、それも黒人兵と結婚しその子どもを産んだ女性が経験したカラード(色つき)に対する偏見と差別、そしてその時々の精神遍歴が綴られている。ここに綴られた偏見と差別は自らが被害者であるものだけではない。黒人との結婚までは思いきったものの、いざ結婚し子を身ごもってみると肌の黒い子が生まれるだろうことに戸惑い、生むか堕ろすか迷う。生んでみると肌の色が思ったほど黒くないことに喜ぶ。その時、黒い肌の夫は色白の子が生まれたと喜び、自分のお父さんのお祖父さんは実はアイルランド人だったんだと誇らしげに言う。アメリカに渡りハーレムに住んでみると、黒人がプエルトリコ人を最下層の種族と蔑む。要は差別される者にも差別意識があるということなのだ。

 本書には他にも様々な差別を描く。アメリカに住む黒人はアメリカ人であることをもってアフリカの黒人を蔑み、国連などに勤めるアフリカの黒人は国に帰ればエリートであることをもって、アメリカに住む黒人をどうしようもないヤツとして蔑む。肌の色は白くても、ユダヤ人は陰で指さされ、アイルランド人やイタリア人は下層級として軽んじられる。差別は肌の色だけに由来するものではない。そのことを端的に指摘した部分をひく。

 金持ちは貧乏人を軽んじ、頭のいいものは悪い人間を馬鹿にし、逼塞して暮らす人は昔の系図を展(ひろ)げて世間の成り上がりを罵倒する。要領の悪い男は才子を薄っぺらだと言い、美人は不器量ものを憐れみ、インテリは学歴のないものを軽蔑する。人間は誰でも自分よりなんらかの形で以下のものを設定し、それによって自分をより優れていると思いたいのではないか。それでなければ落着かない。それでなければ生きて行けないのではないか。

                         (本書P325より)

 ここに引いた一段落だけで、私にも耳の痛い部分はいくつもある。それは少なからず私の矜持にかかわる部分である。誇りを持つことはけっして悪いことではないだろう。しかし悪くするとそれは差別意識につながる。しかしだからといって、それを非難されても困る。立つ瀬が無い。

「非色(ひしょく)」、色に非ず。人は肌の色で中身が決まるものではない。また差別は肌の色によるものだけではない。差別されたり、差別したり。差別を容認はしない。しかし程度の差こそあれ誰の心にもそうしたものはあるものだろう。自分をしっかり持て。決してくじけるな。誇りを持って胸をはれ。差別を笑い飛ばして強く生きろ。つまるところそういうことか。