佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『ザ・ロード』(コーマック・マッカーシー:著/黒原敏行:訳/ハヤカワepi文庫)

2022/07/04

ザ・ロード』(コーマック・マッカーシー:著/黒原敏行:訳/ハヤカワepi文庫)を読んだ。先日読んだ椎名誠氏のエッセイで大絶賛のSFである。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 空には暗雲がたれこめ、気温は下がりつづける。目前には、植物も死に絶え、降り積もる灰に覆われて廃墟と化した世界。そのなかを父と子は、南への道をたどる。掠奪や殺人をためらわない人間たちの手から逃れ、わずかに残った食物を探し、お互いのみを生きるよすがとして―。世界は本当に終わってしまったのか?現代文学の巨匠が、荒れ果てた大陸を漂流する父子の旅路を描きあげた渾身の長篇。ピュリッツァー賞受賞作。

 2006年度のピュリッツァー賞受賞作、ついに文庫化。今夏ヴィゴ・モーテンセン主演映画公開。 灰が降り積もり滅びゆく世界。掠奪と殺人が横行する荒れ果てた大陸を、父と子はひたすら南へと歩いてゆく。ただお互いのみを頼りとして──。文庫版解説はいま注目を集める川端康成文学賞作家・詩人の小池昌代さんです。

 

 

 

【以下ネタバレ注意】

 描かれているのは未来の地球。終末を迎えた世界。そこでは空は暗雲がたれ込め、地は降り積もる灰に覆われ、気温が下がり続けている。植物も死に絶えていく死の世界、廃墟と化している。はっきりとした説明はないが、大規模な核戦争、あるいは巨大隕石の落下などに見舞われたのであろうと想像がつく。動植物とともに人類もまた大多数が死に絶え、また家畜や作物など食べものを生産できる環境ではない。となるとどんな様相を呈するか、想像に難くない。僅かに残る食べものを奪い合い、強者が生き残る。食物の再生産が無いのだから、敗れて死した者を勝者が喰らうということが横行する。文字どおり弱肉強食の地獄。

 そんな世界を父と子がひたすらに南をめざす。生き延びる希望を求めて。南をめざすのは、そこが単に暖かいところだというだけではないだろう。そこにまだ人が人を思いやり、助け合い、共に生きていける場所があるかもしれないという微かな期待があるのだろう。

 子は世界が変わってしまってから生まれた。まだ父の庇護が必要な年齢である。当然のことながら父は子のためならば殺人も辞さない。しかし子は、終末に生まれ落ちた子にもかかわらず殺人を、いや犬でさえ殺すことを躊躇する優しさを持つ。善なるものを心に宿し、それを捨て去ってしまうことをしない少年だ。以下は父子がある男に襲われ息子が殺されそうになったとき、父が銃でその男を撃ち殺した後の父子のやりとりである。

 一日歩くあいだ少年は黙り込んでいた。・・・・・・(中略)・・・・・・

 パパはもっと気をつけていなくちゃいけなかったな、と彼はいった。

 少年は返事をしなかった。

 なにかいってくれ。

 わかった。

 お前は悪者ってどういうのか知りたがっていただろう。今はもうわかったはずだ。ああいうことはまた起こるかもしれない。パパの役目はお前を守ることだ。神さまからその役目をいいつかったんだ。お前になにかしようとするやつは殺す。わかるな?

 うん。

 少年は頭からかぶった毛布で身体をくるんでいた。しばらくして顔をあげた。ぼくたちは今でも善(い)い者なの? といった。

 ああ。いまでも善い者だ。

 これからもずっとそうだよね。

 そう。これからもずっとそうだ。

 わかった。

 父がその男を殺すことになってしまったいきさつは、男と対峙したとき、父がなんとかその男を殺さずに、しかも自分たちの身の安全が確保できるような方法をとろうとしたのだが、その男は銃を持つ父が自分を殺す度胸がないと判断し逆に襲撃しようとしたということであった。もしも他人に対する優しさや憐憫の情がなければ、とるべき行動に制限がなくなる。つまりとるべき行動の選択肢が増え、生き延びる可能性も高まる。自分たちが生き延びることだけを考えれば、男が信頼出来ないならば、端からためらわず男を殺してしまうに如くはないのだ。

 殺さずにその場を収めることが出来ないかと考えた父は甘かったのだろうか。いや決してそうとは言い切れない。それが証拠に息子に危害が加えられそうになったやいなや、父は男を射殺した。父はあくまで息子のためにその男を殺さずに済ませられないかと考えたのだ。「パパはもっと気をつけていなくちゃいけなかったな」というのは、結果として自分が甘かったことに対する反省であると同時に、今なお純真で人らしい心を失わずにいる息子に対する警告でもある。それだけに自分たちはこれからもずっと善い者だとする二人の会話が切なく胸に迫る。

 世界の終末ともいえるこの極限状態で果たして「善い者」として生きていけるのか、人として生き延びるためにどこまでやって良いのか。どこまでやれば人間でなくなるのか、その限界は? そうした葛藤の中で己のギリギリの判断を試されながら二人は生き、南に向かう。再びここで少年と父の会話の一節を引く。

 少年は頭を彼の膝に載せた。しばらくしていった。あの人たち殺されるんでしょ?

 ああ。

 なんで殺されなくちゃいけないの?

 わからない。

 食べちゃうの?

 わからない。

 食べちゃうんだよね、そうでしょ?

 そうだ。

 でも助けてあげられないのはぼくたちも食べられちゃうからだよね。

 ああ。

 だからぼくたちには助けてあげられない。

 そうだ。

 わかった。

・・・・・・(中略)・・・・・・

 パパの顔を見るんだ。

 少年は彼に顔を向けた。今まで泣いていたように見えた。

 話してごらん。

 ぼくたちは誰も食べないよね?

 ああ。もちろんだ。

 飢えてもだよね?

 もう飢えてるじゃないか。

 さっきは違うことをいったよ。

 さっきは死なないっていったんだ。飢えてないとはいってない。

 それでもやらないんだね?

 ああ。やらない。

 どんなことがあっても。

 そう。どんなことがあっても。

 ぼくたちは善い者だから。

 そう。

 火を運んでるから。

 火を運んでるから。そうだ。

 わかった。

「火を運ぶ」とは何のことだろう。たとえば暗闇を照らす松明の明かり。あるいは団欒の中心となる焚火。はたまた調理をはじめとした文明。ひょっとして純真で人らしさを失わない高貴な心。そうしたもののメタファーだと私には思える。

 破滅後の世界に生まれ、それでもなお人としての高貴な心を失わない少年。彼がこの終末の世界を生き抜くことが出来たのかどうか、そしてその先に人類は再び人らしく生きることを獲得できたのかどうか、それは本書を読み終えた我々自身が想像するしかない。本書に著された終末世界と比べるべくもないが、ロシアのウクライナ侵攻での無慈悲な殺戮を現に見る我々が今、生きるということをどう考えるか、悪魔の所行を視てなお人間という者を信じ続けるのかどうか、人類の将来に希望を持ち続けるのかどうか。そうしたことが問われているように思う。もし自分がこのような極限状態におかれたらどうするか、命をかけても守るもの(けっして捨てることがないもの)はなにかという決意が問われる。

 ラストシーンで私は泣いてしまった。一昨日、昨日とドラマ『マルモのおきて』を視て泣いてばかりいたが、今日また泣いた。どうも年をとると涙腺がゆるくていけない。

 明日は映画を見てまた泣くか。