佐々陽太朗の日記

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『後継者たち』(ウィリアム・ゴールディング:著/小川和夫:訳/中央公論社)

2022/08/01

『後継者たち』(ウィリアム・ゴールディング:著/小川和夫:訳/中央公論社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

 春が来て、首長のマルに率いられたネアンデルタール人は浜辺から山間に移動してきた。平和で調和のある世界に住む仲間と一緒にフェイとロクが、冬の間留守にしていた渓流のある山間に来ると、そこには、嫉妬があり怨恨があり、首長を倒して自分が取って代わろうという野望を抱き、原罪の知恵をもった新来者=人類が侵入していた。新来者が射て来た矢を贈り物と考えるほど無邪気なネアンデルタール人を、人類は襲い、うばい、殺し、最後に残ったフェイとロクの二人も、滝壺に落ち、氷壁に押し潰されてしまう。ネアンデルタール人の滅亡である。ネアンデルタール人にとってかわった人類は、原罪をひきずりながら、暗い未来に向かって水上に舟を進めてゆく。

 われわれの祖先と同じように、原罪を背負ってあてどなくさまよう現代人に、人間の生きるべき道の探求を提示する本年度ノーベル文学賞受賞作家が、H・G・ウェルズの『気味のわるい奴ら』を下敷きにし立場をかえて描いた傑作。

 

 

 主人公はネアンデルタール人のロク。首長マルに率いられ小集団で平和に暮らしている。ある日、いつも渡っている自然の橋がなくなっているのに気づく。皆、水を怖れているので橋がなくては生活に支障を来す。しかし、橋を架け直すほどの知恵も技術もない。なんとか渡れるようになったものの、水に落ちたマルは体調を崩し帰らぬ人となる。ある日、仲間の一人が帰ってこなかった。その後もロクと同年代の女の子のフェイが仲間の食べものを探しに出掛けている間におばあさんも、 幼女リクウも、赤ちゃんも姿を消していた。新来者(ホモ・サピエンス)に殺されたり、連れて行かれたりしたのだ。しかしロクにもフェイにもそのことが正確に理解できない。彼らには他人を殺めたり、他人から何かを奪ったりという発想がない。ただあるがままに自然を受け容れ、人同士お互いに助け合い分け与え合う生活であって、自分たちだけのために何かを所有したり、まして争って奪ったりすることなど考えも及ばないのだ。自分に向けて飛んできた矢を「贈り物」だととらえるなど象徴的な出来事だ。それはとりもなおさず”無垢”であるということ。この”無垢”の前に人間の剥き出しの本性はなんと薄汚く映ることか。本書についてよく”原罪”という言葉が用いられるが、本書を読むと言うことは、まさに「原罪意識」を植え付けられ、それに対峙することに他ならない。なぜなら我々はその新来者の子孫なのだから。文明を獲得することによって、いくぶん剥き出しの本性を隠しおおすことに成功してはいても、根っこにあるものは大昔も今も変わらず醜くいやらしい人間なのだから。

 読むのにたいへん苦労した。書かれていることが何のことかわかりづらいのだ。はじめは訳のせいかとも思ったが、そうではなかった。ネアンデルタール人であるロクの視点、つまり”無垢”な者の視点で物語が書かれていることがその原因だとわかった。つまり”無垢”でない者には”無垢”であることが理解できないのだ。その意味で、私は最初から最後までかみ合わなかった。ただ変遷していく世界の中で滅び行くほか無かった者たちを見つめ、滅んでしまった当然の帰結を見届けることがただただむなしく悲しかった。だから人はどうあるべきだとか、人が地球環境に何を為し得るかなどは考える気もしない。この世は楽園ではない。環境に適応した者が生き延び、さもなくば滅びる。ここにあるのはそうした現実だけだ。

 ウィリアム・ゴールディングを読んだのはこれが二冊目である。ちょうど二年前に『蠅の王』を読んだ。無人島に不時着した少年たちの物語であったが、人が内に持つ本性が暗雲のようにたれ込め、少年たちの心に不穏なものを惹き起こすといったものであった。読後感が少し似ている。気が重い。しばらくはあっけらかんと笑うことができそうもない。

 

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