佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『ジョゼと虎と魚たち』(田辺聖子:著/角川文庫)と劇場アニメ版映画

2022/08/22

ジョゼと虎と魚たち』(田辺聖子:著/角川文庫)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

足が悪いジョゼは車椅子がないと動けない。ほとんど外出したことのない、市松人形のようなジョゼと、大学を出たばかりの共棲みの管理人、恒夫。どこかあやうくて、不思議にエロティックな男女の関係を描く表題作「ジョゼと虎と魚たち」。他に、仕事をもったオトナの女を主人公にさまざまな愛と別れを描いて、素敵に胸おどる短篇、八篇を収録した珠玉の作品集。

 

 

 意外なことに短編集。九つの男女の恋愛事情。ここに登場する男どもは概ね欠陥品。人を傷つけることもあれば、裏切ることもある。大切なことをうやむやにして逃げることも。どこか抜けていて憎めないところもある。対して女はどうか。昭和の女であるから、けっして強くはない。とりわけ表題作の主人公ジョゼは両足に障碍をかかえており、まわりの支えなくしては生きて生きにくい身ではある。女には生きにくい世をけなげに生きている。男に寄りかかってしまったりはしない。自分ひとりであっても、きちんと生きていく気概がある。重い障がいを持つジョゼにしても、いざとなれば死ぬ覚悟を持っている。むしろ独り立ちできないのは男のほうだ。そんな女の目線で視た恋愛事情は、男の読者たる私の心をドキッとさせる。幾分の怖さも交えて。そう・・・女って怖い。それは男の持つ怖さとは異質のものではなかろうか。つくづく男と女は別の生きものだと思う。

 さて、ここからは表題作の短編「ジョゼと虎と魚たち」に絞って書く。(以下ネタバレ注意)

 本書を読んでからアニメ版として映像化されたものを観た。実写版(池脇千鶴妻夫木聡:主演)は観ていない。韓国映画としてリメイクされたものもあるようだがそれも観てはいない。

 

 

 小説を読んでから映画を観るといつも思うことだが、小説と映画化された作品とはまったく別のものだ。小説の良さを映画は伝え切れていないどころか、作り替えてしまっているとすら思う。それは映画がそれを観てくれそうな観客に向けて作られており、そのターゲットが小説の読者ではないからだろう。加えて映画の興行的成功のために、観客層を広げなければならず、ましてアニメ版ともなれば青少年向けに作る必要がある。青少年の多くは夢みるものだし、人の心の微妙な襞を感じとるほどの人生経験は無い。このアニメ版映画がいかにもせいぜい二十歳台前半までの青少年にウケそうなものに作り替えられたのも興行的成功のためにはやむを得ないことだろう。現にアニメ版映画はコロナ禍の中では大成功をおさめたように見える。制作配給側の事情はわかる。わかっちゃいるが小説好きの私とすればひと言二言ネチネチと文句をつけたくなる。

 まず第一に、小説にそこはかとなく感じられるジョゼと恒夫の間のエロティックな関係が削ぎ落とされてしまっている。ふたつ目に、いかにも青少年向けの純愛ストーリーとなっており、結末は無理矢理のハッピーエンドという点。三つ目に、ハッピーエンドに持って行くためにジョゼを画の才能のある非凡な女性に仕立て上げ、独りでも生きて行けそうな強さをもたせてしまった点。もう小説の世界は台無しである。

 恒夫はといえば、小説では出会った頃は大学生、やがてありきたりに地方公務員になった男だ。それがアニメ版では海洋生物学を専攻する大学生。いつかはメキシコの大学へ留学して、小学生時代に出会った幻の魚“クラリオンエンゼル”を見ることを夢みてバイトに精を出す学生に作り替えられている。恒夫は道路の真ん中で車椅子が動かなくなって車に轢かれそうになったジョゼを助けようとして自分が大けがをしてしまい、その怪我のせいで決まっていたメキシコ留学がおじゃんになる。そんな恒夫をジョゼが自分で書いた絵本で励まし・・・となるのだが、なんだこれは? 恒夫をティーンエイジャーが憧れそうな爽やかな好青年とする見え透いた改ざん。いっそのこと名前も「恒夫」なんて野暮ったいものじゃなく「蒼」とか「弓弦」とかはやりの名前に変えたらどうだと皮肉のひとつも言いたくなる。さすがにお聖さんに遠慮があってそこまでできなかったか。ジョゼを恒夫と対等のところに持って行こうとする意図は何なのだろう。ジョゼが女だから、あるいは障がい者だから下に見よということではない。無理矢理に対等性を持たせてしまったことに、それをやっちゃぁおしまいよと言いたいのである。微妙な言い回しになるが、ジョゼと恒夫との関係に対等性を持たせてしまっては、恒夫がジョゼに対して行うことに基本的な免責が与えられてしまい、恒夫の心の中にある葛藤が薄まってしまうのではないか。そうしたらこの小説の基本的背景がうやむやになってしまうのだ。原作ではジョゼの住むアパートの二階に「お乳さわらしてくれたら何でも用したる」と言ってニタニタしてるオッサンの話が出てくる。恒夫はジョゼの世話をする中で、そのオッサンと自分の共通性あるいは違いについて葛藤があるはずで、それもこの物語で見逃せない重要な点であろう。アニメ映画では恒夫とジョゼの間の性的な部分はうまく覆い隠している。そんなことで良いのか! お聖さんが描きたかったものとはまったく別のものだろう。短編小説を98分もの映画に引き延ばしながら、薄っぺらなものにしてしまっているではないか。若い二人が障がいを乗り越え、お互いの善なる心と心でつながり幸せに暮らしましたとさ、そんなふうに片づけて、純愛を賛美して、そんなものにいかほどの価値があるのだろう。いや、いかほどの真実があるのだろう。

 私にとってこの小説の一番大切な場面は恒夫が大学卒業前後のあれこれでしばらくジョゼの家に顔を出せないでいて、就職が決まって久しぶりに行ってみたらおばあちゃんが死んでしまっていて、他に身寄りの無いジョゼは引っ越し生活保護を受けながら独りでアパート暮らしをしていたくだりである。恒夫がしばらくほったらかしになってしまったことを詫びると「アタイを哀れんでるのか、心配いらん!」と追い返すようなことを言い、帰るというと「早よ帰り。早よ帰りんかいな・・・。二度と来ていらん!」と激昂し、かえって恒夫が心配になって恐る恐る近寄っていったら「帰ったらいやや」と恒夫にすがりつく。ジョゼの置かれた情況とどうしようもなく不安で孤独であっただろう心もちが偲ばれおもわず泪がでてしまった。恒夫は不安で不安でしようがなかったくせに、精いっぱい強がり、悪たれ口をたたくジョゼがかわいくてたまらなかった。そんな結びつきこそがこの小説の肝であって、アニメ版映画が描くような前向きな二人の明るい未来などではない。そこには障がい者とその共棲(ともず)みの男の生きにくさがあり、あやふやで不安な情況があり、かならずしも良い方向にはすすまない予感がある。

 ジョゼは両足が動かないことをもって自分が不幸だとは思っていない。いや、不幸の原因には違いないが、少なくともそれだけをもって決定的なものだとは思っていない。ジョゼが感じる幸福と不幸の境目は人間関係にある。恒夫が側にいる限りは幸福で、それでいいと思っている。同時にジョゼは今は側にいてくれる恒夫がいつまでもそのままとは限らず、いつかは去るかもしれないと思っている。つまり幸福を恒夫との今の関係に見いだしており、裏返しの不幸もはっきりと予感しているのだ。だからジョゼは「幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える」のではないか。恒夫とならんで部屋に寝そべる今、この幸福の瞬間を「死んだモン」になっていると思うとき、ジョゼは幸せだと、完全無欠な幸福は死そのものだと思えるのだろう。

 たかだか26ページの短編だが、98分の映画よりも深くいろいろなことを考えさせられる。名作です。