佐々陽太朗の日記

酒、美味しかったもの、読んだ本、サイクリング、旅行など。

『河岸忘日抄』(堀江敏幸:著/新潮社)

2022/08/29

『河岸忘日抄』(堀江敏幸:著/新潮社)を読んだ。

 まずは出版社の紹介文を引く。

セーヌと思しき河に浮かぶ船を仮寓とする「彼」。陽あたりのいいリビング。本とレコードが几帳面に並ぶ樫の木の棚。訪ねる者はといえば、郵便を届けにきて珈琲をのんでゆく配達夫くらいだ。謎めいた大家を時に見舞いながら、ブッツァーティチェーホフツェランなどを再読し、ショスタコーヴィチほか古いLPに耳を澄ます日々。ためらいつづけることの意味をさぐる長篇。

 

 

 

 堀江敏幸氏の本を手に取るのはこれが二冊目である。初めて読んだのは『雪沼とその周辺』。昨年の2月のことであった。「いいなぁ、素敵な文章だ。何かもう一冊」と思い図書館の蔵書リストの中から選んだのが本書である。予約リストに登録したまま実に一年半が過ぎ、やっと今月の中旬になって借りたのだ。これがミステリーや時代小説などのシリーズものであればすぐに読みたい気になるものだが、堀江氏の小説はそうしたものでもない。好きな文章でどんどん読みたい。ただ読みたくはあっても、それを渇求するといった類いのものではない。折に触れてたっぷりした時間の中でゆっくりとページを捲りたい。そんな気持ちになる文章にたゆたう贅沢。それが堀江氏の小説だろう。

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 さて本作『河岸忘日抄』(かがんぼうじつしょう)です。

 主人公は異国の地で、ある老紳士を助けたことがある。その縁でセーヌ川河岸に繫留した船を借りて住むことになる。日々本を読む、レコードを聴く、映画を観る、料理をする、たまに訪れる郵便配達夫と、あるいは近所に住むという少女とおしゃべりする、家主を見舞うこともある。有意なものを捨て去ったような生活に身をまかせる。ただ過ぎゆく時を消費し、とりとめのない思索が積み重なってゆく。そういう小説です。これといった事件も謎もありません。主人公がそうした生活をしようと思ったいきさつは想像がつくような気がする。しかしそれが語られることはない。そうした屈託を語ろうとしない姿勢に主人公の矜持をみる思いだ。内に居つづけるか、外に出るか、じっとしているか、あるいは動くか、ためらい続けることのなんと贅沢なことか。

 主人公がそうした日々を送っているのは、けっして行き詰まったあげくの投げやりな態度ではないだろう。それは主人公が子供の頃を思い出した次のようなエピソードがあえて語られていることから推測できる。それは小学生の時に理科の実験でやった二本の電池を直列と並列につないで光の強さをを観る実験です。直列つなぎでは一個の電池の光の倍明るさになるのに、並列つなぎでは光の強さは変わらない。足したつもりなのに。しかし一見、意味がないように見える並列つなぎも、実は力を温存している。精一杯強く光るということに、そうしなければならないと考える強迫観念のようなものに、主人公は疑問を持つ。弱くてはいけないのだろうか、なぜ並列でよいと得心できないのだろうかと。それば単純な弱さではなく「水準の高い弱さ」「強い弱さ」なのにと。直列つなぎに魅せられるか、あるいは並列つなぎか。主人公は後者であろうし、本書に魅せられる読者もまた同様であろう。不肖私も少しくその気があるような気がしてちょっとうれしい。60歳で会社関係の一切を退き、酒を飲み、本を読み、映画を観、たまに自転車旅行に出かける楽しみをみずからに許す贅沢に身を委ねたい。世の中は肩書きを無くした人間に冷ややかだが、それもまたかえって気持ちが良い。

いまの世の流れは、つねに直列である。むかしは知らず、彼が物心ついてからこのかた、世の中はずっと直列を支持する者たちの集まりだったとさえ思う。世間は並列の夢を許さない。足したつもりなのに、じつは横並びになっただけで力は変わらず温存される前向きの弥縫策を認めようとしない。流れに抗するには、一と一の和が一になる領域でじっとしているほかないのだ。

                          (本書P72より)

 

 静かで美しい文章で主人公の日々の思索がそれこそ延々と書き綴られる。ふと睡魔におそわれるほど優雅である。しかしそれは退屈とは少しちがう。主人公を通して語られることの教養の高さ、思索の深さはどうだ。良質なエッセイのように脳が刺激され、イメージが拡がる。もう一度、いや何度も読み返したい本とはこうしたもののことをいうのだろう。